モデルとしてのイエス・キリスト

尊敬できる人

人生の中で尊敬できる人に会ったことはありますか?その人は学校の先輩や先生かもしれませんし、職場の人の先輩や上司かもしれません。もしかしたら、自分よりも年下の人かもしれません。

尊敬できる人を心に思い浮かべてください。「すごい人だな」、「憧れるな」、「自分もあの人のようになりたいな」。そんなことを感じるかと思います。ある部分で、あなたにとってモデルになる人です。

ただ、その人であっても完璧ではないんですよね。何かしらの欠点は誰にでもありますし、機嫌が悪くて失礼なことをしてしまったりなんかもするわけです。それは、「聖人君主に見えたのに裏では極悪人だった」ということではなくて、全ての人間が人間的な弱さを抱えているということです。

尊敬できる人の行動や考え方を真似ることは素晴らしいです。一方で、尊敬できる人でも完璧ではない以上、尊敬できる人に心酔して無批判に真似すると過ちを犯すことになりかねないです。Aさんが尊敬できるからといって、Aさんのする全ての行動が素晴らしいわけではないのです。当たり前のことを言っているようですが、本当の意味で(あらゆる点において)他者をモデルにすることは難しいです。「尊敬できる人」もつまるところ人でしかないんです。

では、本当の意味で人生におけるモデルは全くいないのでしょうか?

イエスこそモデル

私はイエス・キリストが本当の意味でのモデルだと思います。イエスこそモデルであり、尊敬すべき方であり、従うべき方であると思います。

イエスが神であり人であることはとても喜ばしいことです。神であるので完璧な方です。あらゆる点において真似するべき方です。人であるので、私たちにとってのモデルになり得ます。何か抽象的な存在としてではなく、私たちと同じ姿を通して、私たちがすべき行動・とるべき考え方の指針をイエスは示されます。

混沌とする世界の中で、何を目指して生きていくべきかわからなくなる時もあるかと思います。そんな時、何を目指せば良いのかをイエスが教えてくださります。イエスが私たちをリードし正しい方向へ導いてくださります。イエスがモデルとして私たちに与えられているということは、すなわち、目的のある人生を送るチャンスが全ての人にあるということを意味していると思います。

他者や自分に絶望を感じてしまう時こそ、次のことを思い出してください。私たちには完璧なモデルが与えられているということを。

あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。

ヨハネによる福音書 13:13

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである

ヨハネによる福音書 13:15

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