本日の気付き…ぽっかり空いた穴
今でも覚えている象徴的な1シーン。
中学校の卒業式の後、クラスに戻り席に座っていると、ほぼ同時に3人の別々の友人から声をかけられたことがあった。なんだかとても嬉しかったのを覚えている。なんでだろ?と振り返ると、もちろん今までそんなこと一度もなかったからなんだけど。きっとそれは「自分が必要とされている」と感じられる瞬間だった。
大学のサークルで合宿係になり、宿の下見をしたり、飲み会が終わる明け方最後まで起きていて片付けをやったり、そんなことを率先してやっていた。それも「自分が必要とされている」と感じられる瞬間だった。挙句の果てが皆様のお役に立てればとサークルのリーダーをやりながらも大学の単位が取れずに中退という体たらく。
自尊心底なし沼の人生で、人に求められることで自分の存在意義をかろうじて見出し、結果として「スーパーヒーロー自己犠牲の奉仕マン」が誕生した。
ボロ雑巾になって他人様の汚れを拭い、喜んでいただいたことでホッとして、どんなにボロでも自分はまだ大丈夫と言い聞かせる。ほとんどの場合、感謝もされないで踏みにじられるだけなんだけど、まだまだ努力が足りないと自分を責めたて、他人様を綺麗にするために自分を汚す。汚物まみれになりながらも「ご主人様!もっと下さい!もっと下さい!」と…
とんでもない変態だよね。改めて振り返ると。
でも、こうして冷静に振り返って、なぜその偽りの快感に浸っていたかを感じるに、認めたくなかった一つの事実が見えてくる。
両親に愛されなかった。
父親との記憶でこれまた象徴的な1シーンがあって、小学生5年頃にテレビドラマを見ていて、娘が泥棒の疑いをかけられたことをその父親が知り、かっこ悪いほどに感情的になって娘を擁護する場面があった。その時一緒に見ていた父親に「もしこうした状況にぼくがなったら、どうする?」と聞くともちろん同じように行動すると父親は答えた。
この1シーンを父親に愛されたシンボルとして、ずーっと、ずーっと大事に胸の奥底に神棚のように置いていたなぁ。何があっても、これがあるから大丈夫と自分を言い聞かせながら。
親に愛されなかったのは、自分に愛される価値がないからだと思っていた。というかそんなの意識するのさえ怖いから見ないふりをしていたんだけど。今から思えば母親の更年期とか鬱症状だったのだろうけど、高校生の頃に一時期母親が作る弁当の質がガクンと下がることがあって(蓋を開けたら御飯の上に一面のグリーンピースだけとかw)、それは愛されていないからだと落ち込んだこともあった。もちろん、そんなこと親には伝えられず…そんなことの結果、ボロ雑巾コスチュームの「スーパーヒーロー自己犠牲の奉仕マン」になった。
ようやく最近、大嶋さんのおかげで腹の底から浸透してきた。そもそも、両親に愛する能力がなかったことに。
3つ目の象徴的な1シーンがあって、昔、トラウマだらけの人生に気がついて過去の振り返りをしていた頃、母親と珍しく向き合って会話することがあった。その時に母親に「あなたのことを愛している」と言ってくれとお願いした。
でも母親はそれはできないと。
「嘘でもいいから…」どんなにぼくが懇願しても決して「あなたのことを愛している」とは言ってはくれなかった。
アディクションだらけの母親で、自分の都合の良い愛玩具のようにぼくを扱ってきたけど、ひょっとしたら自分に愛する能力がないということを母親は気づいていたのかもしれない…
もしくはただのぼくの支配するための手綱さばきか。(理想と現実w)
乾燥しきった灼熱の砂漠の中で、存在することのないオアシスを今までずーっと、ずーっと探してきた。乾燥しているのであれば、こちらから潤してあげればひょっとしたらと自分のなけなしの血肉を注いできた。それもすべて偽りの快感だった。
親に愛する能力がなかった。ただ、それだけのこと。
だがしかし、そもそも他人に愛されなくても良かった。
親の愛という支えをなくすと深淵の暗闇に落ちると信じてきたけど、なんか最近、支えが無くても落ちることなく、その場にフワフワと漂っていられるんだと感じることが多くなった。
ぽっかり空いた穴は落ちるんじゃない、次のステージの入り口なのかもしれない。でも、今までいろんな手段でふさごうとしてきた穴だから、ちょっと慣れるまでムズムズするねw