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保田與重郎に学ぶ日本社会の宗教観

Twitter で示唆に富む言葉を見つけた。

浪曼派bot(壱)
国際宗教的宗教観念により神道を宗教化せんとし、渡来の国際宗教に対立される如き形の神道宗教を組織する人為を、今日も亦排除せねばならぬのである。
鳥見のひかり/保田與重郎

この示唆に富む発言に大いに頷くものです。
この書は「昭和19年秋から翌20年春にかけて発表された。神道思想が喧伝される戦時下、しかも国土の戦場化を覚悟しなければならない時期に執筆された戦中最後の文章。」ということです。

昨今の宗教問題にもこの言葉をもって考えます。
日本社会の外国追従から生まれた現在の社会環境は宗教的なもの、或いは日本人の精神世界にも同様に「自分たちの無さ」が映し出されており、外国からきたキリスト教的な邪教に対しても日本人の心からの反論を用意出来ず、唯々諾々とヘラヘラ笑って受け入れてきた情けない日本人の心根を大いに嘆くべき、と思います。
なるようにしてなった「無精神 無宗教国家」であり、某邪教に対して賛否両派に納得できるような論は皆無と感じております。
(賛論などは邪教自体の言い訳しか報道されておりませんが)
私の言いたいことは以下に要約できます。
金で救われると言う精神を教えたのは日本社会ではないのか?
 国家と宗教、という概念を持たなければいけなかった時こそ金権日本が
 始まった時ではなかったか? それを近代化と言い受け継いできたのは
 外でもない日本人自身ではないか。
救いだと言われて金を差し出す人を排斥する精神は誰から学んだのか?
 敢えて言えば、その人たちは救われるべき人たちで、
 その人の家族を含む「社会」はそれを拒んだのではないのか?
検証すると言い宗教を検証するなど誰が何をどうやってやるのか?
 
言ってることもやってることも、全く訳が分からない事だらけです。