俺のブルーピリオドを聞いてくれ〜藝大受験体験記〜
※このnoteは東京藝術大学に3回も落ちた人間が書いた藝大受験体験談です。相当こじらせた内容であることをご了承ください。
ブルーピリオドとはピカソの初期の画風のことで、孤独で不安な青年期を表す言葉としても使われる。
今日「ブルーピリオド」という名前の映画を見た。残酷な映画だった。
今から話す内容は、東京藝大をかつて4回も受験(学部3回、院1回)した私のブルーピリオドの話である。
きっかけ
深夜の音楽番組に映るテレビセットを見て「これをやりたい」と確信し、美術予備校の門を叩いた。私が通っていたのは原宿駅から少し歩いた閑静な場所にある、レンガ造りの小さな建物が目印の美術予備校。都内にいくつかある美術予備校の中で選んだ理由は「学校から通いやすかったから」。
高2の冬季講習でデッサンの基礎を学んだ後の進路面談で、舞台美術家を目指すなら、ということで私大の空間デザイン系の学科を目指そうという話になった。
私大の空間デザインを第一志望にする人は少なく、正直グラフィック系をやりたい子たちの滑り止めみたいな扱いになっていた。
真面目に授業を受けていれば合格できるところが私の第一志望なんだと気づいた時から、日々になんとなく物足りなさを感じていた。
多くの予備校の場合、それぞれが得意とする専攻がある。
私が通っていた美術予備校は、私大(多摩美や武蔵美)はどの専攻も多く輩出しているが、藝大受験に関しては「建築科」という超ニッチな専攻でありえない数の合格者数を出していた。
藝大の建築科は、全体の合格者数が15名と超少数精鋭。しかし全盛期には、そのおよそ9名〜10名はこの予備校出身という、異常な合格率を叩き出していた。
今考えると、心がヒリヒリするギャンブルのような経験がしたかったのかもしれない。ちなみにこれは今でも治らない私の悪い癖である。
せっかくなら大きなヤマを当てたい。死人がゴロゴロするようなヤマを。というただの地面師的チャレンジャー精神で、私は人生を、大きなギャンブルに賭けることにした。進路を私大志望から藝大建築志望へ変更したのだ。
当時の試験内容
藝大建築の当時の試験内容は、1次試験が「空間構成」というデッサン、2次試験は「建築写生」「立体構成」。
なんのことだかわからないと思うので少し説明する。
「空間構成」とは、A3ぐらいの画用紙に想像で幾何学をデッサンをする試験だ。「直径80cmの球1つと一辺50cmの立方体3個が浮遊しているように描け。」みたいな文章が配られ、幾何学をセンス良く配置した絵を描く。およそ3時間だった気がする。
「建築写生」とは、その名の通り建築を写生する試験で、外で8時間くらい東京のどこかにある名作建築を水彩画で描く。(ちなみに雨が降ると室内の絵を描くらしい)
「立体構成」とは、指定された紙や角材など材料を使用し、120cm四方に収まるくらいの大きな紙の立体物を作る。120cm四方の紙立体というのは相当大きいので、自立させるのも大変だ。それに与えられた材料を時間内にいかに無駄なく素敵に調理するかも関わってくる。
立体構成の写真は昔すぎて全然出てこないな・・・
8時間かけて作った立体構成を講評で講師にグチャグチャにされて「こんなのゴミだよ」と言われながらゴミ箱に捨てられたり、
建築写生がうまく描けなくて自分でビリビリに破いたり、
様々な特殊訓練を受け、私たちは以下の技術を身につけた。
・パースを下書きなしでほぼ正確に描ける
・空間のサイズがわかれば見ただけで物の高さがわかる
・紙を異常に綺麗に素早く切ることができる
建築家にでもなったらそのスキルは活かせたかもしれないが、残念ながら現状ほとんど活かせたことはない。
そんなこんなで現役は、準備不足もあって不合格。1浪で合格できるように頑張ろう、と思いかけた矢先。
大事件が起こる。
1浪初夏の大事件
1浪の初夏、なんと藝大の建築科が、それまで行なってきた試験の内容を変えると言い出したのだ。
2次試験の「建築写生」「立体構成」を無くし、2年間をかけて段階的に新たな形にアップデートした試験内容にするというのだ。
私なんてまだ良い方で、早い子は高1から建築写生や立体構成の練習をしてきた子も存在する。2浪目で、もう後がないというところでそのお達しが来て、絶望的な目をしていた先輩を今でも忘れられない。せめて1年前に告知してほしい信じられないニュース。さすがに先生たちも焦りを隠しきれていなかった。
試験の内容は結局、「出されたお題に沿った空間の絵を想像で描く」的な内容に変わった。変化1年目は絵と1〜2行の文章、変化2年目は絵と5~600文字くらいの小論文だった気がする。
変化1〜2年目、つまり浪人時代のことは、不思議なことに現役の時ほど覚えていないのだが、2年目の試験中のことは今でも鮮明に思い出せる。課題文を読んだが緊張のあまり理解ができず、「あっ、これは落ちるかも」と直感し、目の前が白くぼやける中で絵を描き続けた。
2回にわたる変化の波に乗れず、臨機応変に対応しきれなかった自分は、ついに藝大建築に合格することができなかった。
蓋を開けると多浪生はほぼ全滅。新鮮に課題内容を咀嚼できた現役合格者を大量に輩出した歴史的な年となった。
思うことは多々ある
藝大受験の何が疲弊するって、17〜20歳ぐらいの、学校と受験と家しか自分の世界がない時期に、自分の信じたものを平気で全否定される場面があまりに多いことだ。講評で作品をゴミ箱に捨てられることも、他人の絵と比較して初めて恥ずかしくなる瞬間も、試験の内容が毎年変わることも。
4年後。私大空間デザイン系学科を卒業した私は、藝大の院へ進学した。
わずかに残っていた藝大コンプレクスをスッキリ整理することができたので、結果的に藝大に行けてよかったと思う。けれど生まれ変わっても藝大を目指すかと言われたら、わからない。人におすすめは絶対にしたくない。
この文章を書き始めたときは、綺麗事を言って締めようと思ったけど、やっぱりやめた。綺麗事は映画の中だけで良いのだ。