方山れいこ
方山がたまに書くエッセイを見てください
ユニバーサル/インクルーシブデザインに関わる話を綴っていきます。
運良く滑り込めた大学は、人生のジャンクションだった。世界中から伸びてきた道が複雑に絡み合って、それらは多くのチャンスと出逢いにつながっていた。 糸玉のような道の集合体から自分を探すために、多くの道を跨ぐのが好きだった一方で、未来が抜けて見える道も、同時に確保しておきたいと密かに思っていた。 同じ学科の先輩から、アルバイトの話を持ちかけられた。 某お台場にあるテレビ局の、とある人気番組のスタジオセット模型の制作。もともとテレビ美術がきっかけで美術大学の世界を志した私にとって、
※このnoteは東京藝術大学に3回も落ちた人間が書いた藝大受験体験談です。相当こじらせた内容であることをご了承ください。 ブルーピリオドとはピカソの初期の画風のことで、孤独で不安な青年期を表す言葉としても使われる。 今日「ブルーピリオド」という名前の映画を見た。残酷な映画だった。 今から話す内容は、東京藝大をかつて4回も受験(学部3回、院1回)した私のブルーピリオドの話である。 きっかけ深夜の音楽番組に映るテレビセットを見て「これをやりたい」と確信し、美術予備校の門を叩
満員の京王線に人を押し込むバイトをしていた。 人に言うと、100%興味を持たれる。別に電車が好きだったわけではない。当時アルバイトしていたテレビ局で、先輩から教えてもらった。朝7時半から9時半まで、2時間ひたすら車両に人間を詰める。けど基本は立ちっぱなしで安全確認が多い。時給1500円。平日毎日でも、朝9時半以降は自由。割が良いなと思って始めた。 実際には人を詰め込むだけではなかった。我々が想像している以上に通勤ラッシュというのは色々なことが起こる。ドアに挟まった荷物を取る
毎年恒例のカロリーメイトの受験生モチーフ広告、今年は数学好きと美術好きの2人の学生の、テンポの良い美しい掛け合いが印象的なCM。 Xで流れてきたあのCMをはじめて見たとき、思わず息が止まりそうになった。 17歳の私が、まさにそこにいた。 とにかく生きることにやる気がなかった。 周りは受験に向けての勉強を始める中、自分だけ勉強できなくて、テストでは毎回赤点を取る。何に向けて頑張れば良いかわからなかった高校2年生の秋の終わり。たまたま夜更かしして、深夜に放送されていた歌番組で
7/11〜7/15まで、韓国済州島で開かれた世界ろう者会議(World Federation for the Deaf)に参加してきました! 4年に1度開かれるこのビッグイベント、お隣の国韓国での開催ということで、これは行くしかない、と思い切って1人で行って参りました。 参加者がほぼDeafの中、通訳者でもない聴者(耳の聞こえる人)はほぼおらず、毎日新鮮な日々を過ごしました。そんな聴者が体験した5日間をまとめましたので是非ご覧ください。 行こうと思ったきっかけ1月にシンガポ
3月15日。穏やかな春の日差し差し込む山手線に走る影を横目に、私は座席に腰掛けた。何気なくチェックしたFacebookの一番上のフィードを見て、まるで胸の内側から皮をヒリっと剥がれるような感覚を覚えた。 『この度、娘が藝大に合格しました! いいね***件』 11年前の3月15日は死にたくなるくらいよく晴れていた。合格発表を見る前にFacebookを見ると、同じ予備校の友人たちの投稿が踊っていた。 『藝大受かりました!』『合格しました!』 それらをひとしきり見終わった後、p
こんにちは、方山れいこです。 突然ですがみなさん、障害者やLGBTQなど、特定の人々(特にマイノリティ)に関する文章のPRを出された経験はありますか? 私は「障害のある社会をデザインで変える」会社、株式会社方角を経営しています。デザイン制作に加え、主に聴覚障害者向けのサービスやプロダクトを開発しています。 今年はありがたいことに、色々とメディアに出させていただいたり、自らPRを打ったりする機会が多い年でした。また自分の意見を公の場で述べたり、Voicyでほぼ毎日配信もさせ
「デザイナーになりたいと思ったわけ」と「デザイナーになったわけ」。大体の人の中では同じ話を指しているのかもしれないが、私の中では全く違う話である。 美術系の大学院も修了間際。就職先も決まらずフラフラしている私に、当時出入りしていたインターン先の人事の方はよく親身になって話を聞いてくださった。 「方山さん、就職とか興味ないの?」 「いや、全然興味ないっす」 「なんかいいなって思う会社とかないの…?」 「あー、なんかかっこいいなーって思ってるとこはありますけど」 その人事の方が
株式会社方角の方山と申します。突然ですが、弊社は2022年4月、ノーコードWEB制作ツール「STUDIO」の認定パートナー「STUDIO Partners」となりました。 参考:弊社のPartners紹介ページ STUDIOでのWEB制作を本格的に始めたのは、遡ること2020年。代表である私方山がフリーランスデザイナーになったばかりで無一文だった頃、ライスワークとして始めたのがきっかけです。 会社化した現在、エキマトペやYY Probeなど、聞こえない方・聞こえづらい方向
株式会社方角の代表の方山です。10月より弊社はプチ拡大移転をし、先日クローズドの移転パーティーを行ないました。 今回は初めて自分がパーティーを主催するので、せっかくならうちの会社ならではの移転パーティーにしたいと思い、こんなコンセプトを掲げました。 「しゃべらない」 従来のパーティーは、しゃべってたまにご飯食べてしゃべって飲んで・・・って感じが普通ですよね。 弊社はエキマトペやYY Probeといった、耳の聞こえない・聞こえづらい方々向けのサービスのデザインをすることが
耳の聞こえない・聞こえづらい方へ駅の情報を視覚的にわかりやすくするエキマトペというプロジェクトにデザイナーとして携わったことにより、私の人生で大きく変わった出来事がありました。 ※エキマトペはこんなものです▼ いくつかあるその大きな出来事のうちの一つに、手話を習い始めたことがあります。 2021年10月より手話を習い始め、ちょうど1年が経った今、どのくらい手話ができるようになったのか書き起こしてみました。 アメリカでは手話は人気の言語らしいですし、2025年には聴覚障害者の
私の父は、寡黙で厳しい父だった。 テレビは夜8時まで。ゲームは禁止。なので家にはゲームボーイすらない。当時「親ガチャ」なんて言葉があったら、悪い子供だったので多用していたかもしれない。 しかしそんな父のことを嫌ではなかった。父は昔から少し異質なオーラを放っていて、なんとも言えない威圧感があった。それが怖いこともあったが、安心材料でもあった。 父が普段どんなことをしているのか知りたくて、たまに父の書斎に忍び込んではその生体を理解できず撤退することを繰り返していた。 ある日いつ
今年の1月、会社を設立した。 それまではフリーのUIUXデザイナーとして細々と仕事を請けていたが、親戚が零細企業の経営者だらけなこともあり、自然な流れで経営者となった。 節税5割・なんか面白そうだから5割の、勢いだけで創業した会社。スタートアップがよく掲げる「世の中を変えたい」とか「業界を盛り上げたい」みたいな気持ちはほとんどなかった。 そんな軽すぎる気持ちで会社を作り一年が経とうとする今、やっとスタートラインに立った気がする。 今年の夏の初めから、富士通さん、JRさん、
駅を颯爽と歩く女子高生3人組。黒くて長い髪で夏の風を象る姿がまぶしかった。私もあのくらいの歳の頃、確かにあんな風で肩を切って歩いていたかもしれないなと思ったその時だった。 3人のうち1人の格好に、私は少し驚いた。他の2人は学校指定と思われる靴下なのに対し、彼女だけが足元が白くクシュっとしていた「それ」を履いていたのだ。 「それ」を初めて見たのは小学生の頃だった。 90年代後半、コギャルが世間でもてはやされていた頃。その一風変わった格好を大人たちがどう思っていたか覚えていない
左右の奥歯がやたら染みる。冷たいものも、熱いものも、甘いものも、酸っぱいものも。3ヶ月前の検診の時もこんな症状が出ていた気がするが、ここまで症状は重くなかったような気がする。仕方ないので歯医者に行くことにした。 らしくないオーガニックな小物が並ぶ待合室で名前を呼ばれ、奥の部屋に誘導され、そのまま横たわった。 早速奥歯に風を当てられた。思わずウッと呻く。 「知覚過敏が進んでいますね。プラスチックのフタを被せましょう。少し痛いと思うんで、麻酔をしますね」麻酔という言葉に少々体が強
先週は祖母は亡くなるというビッグイベントから幕を開けるというなかなかハードな一週間だった。 祖父が亡くなって11年。あの時は「おじいちゃんありがとう」と心の中で繰り返すことが多かったけれど、今回は「ただ甘えたい」という気持ちが強い。死んだら皆同じ、というわけではないようだ。 祖母の遺体は、孫たちの写真と共に荼毘に付した。わたしは初孫だったので孫の中でも必然的に写真が多く、そのたくさんの写真は祖母のもう動かない足を布団のように包んだ。自分の写真に囲まれながら棺の蓋をされる祖母の