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ウロボロスの遺伝子(1) プロローグ(終わりと始まりの日)

 風が穏やかな満月の夜だった。流れる雲で月が隠れた一瞬の薄闇の中、野犬の遠吠えが幽かに聞こえた。本格的な冬の到来にはまだ早いが、晩秋の深夜の寒さは疲れた体には堪える。二日前から昼夜問わず続いている誘拐捜査の激務のため、捜査員たちの多くは疲弊していた。

 時刻は深夜二時。都心からやや離れた台東区の住宅街で、捜査員たちは、近ごろ都内でも増加が目立ち始めた、放置された空き家を取り囲んでいた。その二階建ての一軒家は、交通量の多い幹線道路から二区画ほど路地に入った裏通りに面していた。この空き家は昔ながらの作りらしく、敷地はさして広くはないが、建屋には小さな庭が付属していた。

 しかし残念なことに、その小さな庭には、ここが空き家であることを示すかのように、外から投げ込まれた粗大ゴミやコンビニのレジ袋が無秩序に散乱していた。雲が流れて満月が再び顔を出すと、月明かりで照らし出されたゴミの山が、庭の無秩序さを更に強調した。この庭の乱雑さとは正反対に、家中の光は少しも漏らさないという覚悟を示すかのように、台風の時期でもないのに、すべての窓は几帳面に雨戸で覆われていた。

「みんな、配置についたな! これから、この空き家に突入して人質を確保し、犯人を逮捕する」
 今回の誘拐捜査を指揮する班長の警部補が、口元のピンマイクを通して七名の捜査員たちに指示を出した。
刑事デカ長、犯人がこの空き家に潜伏しているという情報ネタは、ガセじゃないでしょうね?」捜査員の一人が聞いた。
「もとより最初ハナから、無駄足は覚悟の上だ。この情報の真偽は俺にはよくわからんが、突入は上からの命令だ」と班長が答えた。
本気マジっすか? 上の命令じゃ、仕方ありませんね」と質問した若い捜査員があきらめるように言った。
「無駄口を叩くのは、ここまでだ。さっき配ったのは、一階の部屋の見取り図だ。暗闇の中でも動けるように、部屋の配置を頭の中に叩き込んでおけ。今から手順を説明するから、よく聞いてくれ」
「あくまで人質救出が最優先だ。まず暗視ゴーグルを装備した強行班が最初に突入して、人質を確保する。次に、合図があったら見取り図の居間の場所に一斉に突っ込むぞ。悪いがヤマさんとスーさんは、犯人を取り逃がした時のための留守番だ。家の表と裏に分かれて待機してくれ」と班長が説明した。

「――今から二分後だ。準備はいいな!」月明かりの下で手元の腕時計を見ながら、班長が指示を出した。
「はい!」捜査員全員が班長に応えた。
 これから起こる大事を前にして、捜査員全員に緊張が走った。

 あるじを無くして久しい空き家の内部は、劣化が激しく彼方此方に綻びが目立った。廊下は薄っすらと埃が被り、天井からの雨漏りのため、壁には斑点のように黒色の黴が生えている。さらに板間の一部には、シロアリのためか、所々で粉を噴いたように床板が腐食した箇所が見られた。嘗ての住人には居間として使われていた一階の部屋で、アウトドア用のバッテリ駆動の照明を取り囲んで、三人が小さな声で話している。

「人質のガキは、静かにしてるか?」誘拐犯の一人が聞いた。
「昼間はギャーギャー暴れていたが、さすがに疲れたようだな。今は隣の部屋でぐっすりと寝てるよ」もう一人の誘拐犯が言った。
「小さいくせに度胸の据わったガキだぜ、まったく。一回も泣かなかったしな。しかし、身代金が入れば、この煩いガキともおサラバだ。清々するぜ」主犯格の誘拐犯が言った。
「明日の身代金受け渡しの手順は、大丈夫なんだろうな?」
「任せとけ。お前らさえヘマしなかったら楽勝だ」
 その時、裏口の方で「ガサッ」と小さな物音がした。
「いま何か聞こえなかったか?」誘拐犯の一人が聞いた。
「野良猫か何かじゃねぇか? 肝っ玉が小せぇ野郎だなぁ、ビクビクすんな。警察(サツ)の連中も、まさかこんな所に潜んでいるとは思わねえだろう」と主犯格の男が自信ありげに言った。

 次の瞬間、ドタドタドタと大人数の大きな足音が聞こえてきた。足音と共に侵入してきた屈強な男たちは、最初からそこに人質がいることを知っているかのように、誘拐犯たちがいる居間の隣部屋に雪崩れ込んできた。暗がりの中でも、暗視ゴーグルなら昼間のようによく見える。強行班の一人が、部屋の隅で寝袋に寝かされていた人質の幼児を発見した。次にその警官は暗がりの中で、幼児の顔と人質の資料として渡されていた顔写真とを照合した。強行班の一人は「間違いない」と確信して本部に連絡した。
「人質確保!」
 その合図をきっかけに、待機していた捜査員たちも裏口から空き家に一斉に突入してきた。捜査員たちは、誘拐犯たちがいると指示された居間を目指して暗闇の中を走った。
 誘拐犯たちが油断していて虚を突かれた事情もあるが、ほとんど抵抗することなく三人の誘拐犯の身柄が拘束された。身柄を拘束された犯人たちは、状況が把握できずに一様にポカンとした表情をしていた。
「被疑者全員、確保しました!」と捜査員の一人が班長に連絡した。

 救出された人質は、手足がビニール製のロープで縛られ、口には布テープが張られていたが、目立った外傷は見られなかった。こんな状況でも、小さな人質は何事もなかったかのように寝息を立ててスヤスヤ寝ていた。この豪胆な幼児は、眠ったまま強行班の一人に抱きかかえられて、少し離れた場所で待機していた救急車まで連れて行かれた。人質の無事救出の知らせは家族にすぐに伝えられ、救出された人質は付き添いの捜査官とともに家族の待つ病院に搬送された。

 東関東テレビの朝の情報番組の本番を前に、番組進行の最終確認をしていたチーフディレクターのもとに、大きなニュースが飛び込んできた。そのニュースを読んで、ディレクターは、すかさず番組スタッフたちに指示を出した。
「本番直前だが、ニュースの差し替えだ!」
 ディレクターの指示で急ごしらえしたニュース原稿が、本番二分前に女性アナウンサーに手渡された。そして時間通り、聞き慣れた軽快なテーマ音楽とともに、いつものように朝七時の情報番組が始まった。
「番組の冒頭ですが、臨時ニュースをお知らせします。本日未明、誘拐されていた毛利康幸やすゆきちゃん(5歳)が無事保護されました。なお、東関東テレビでは人質の安全を考慮して、事件直後から誘拐報道を控えていました。犯人は・・・・・・」
 臨時ニュースを読み間違えなく伝えられたことと、人質の無事が確認されたことから、女性アナウンサーの顔には安堵の表情が浮かんでいた。その安堵の表情は、東関東テレビの報道フロアのスタッフの間にも、さざ波のようにゆっくりと伝播していった。

「お母さん!」
娘は、ベッドに横たわる変わり果てた母親の姿を見て、現実を受け止められなかった。父を亡くしてから十年、女手一つで自分と弟を育ててくれた大好きな母のことを思うと、娘は無念でならなかった。職場に警察から連絡が入ったときには、頭が真っ白になって、何も考えられなかった。娘は混乱する思考が整理できないまま、上司に付き添われて病院に来ていた。
「――どうして、こんなことに・・・・・・。これからやっと親孝行ができると思っていたのに・・・・・・」

 その日の朝、いつものように母親は娘と息子の二人分の朝食を作り、『お味噌汁は温めて食べてね。母♡』と書置きをして職場に出かけて行った。母親の職場は自宅から少し遠いため、二人の子供たちより早く出勤するのが母親」の日常だった。しかし、その日常が非日常に代わるのは一瞬だった。
病院には医療従事者の他に、報道関係者や警察官らしき人たちが大勢集まっていて、いつもは静かな病院の待合室が騒然としていた。
「詳しいことはまだわかりませんが、高齢者が運転していた車が、歩道を歩いていた歩行者の列に突っ込んで、次々に人を撥ねたようです」と警察官らしき人から説明を受けた。娘は遠くを見つめ、「これから弟と二人でどうしよう・・・・・・」と考えながら、長々と続く警官からの説明を上の空で聞いていた。

 朝の情報番組が今日の放送を終了し、ひと段落して寛いでいた番組担当ディレクターのもとに、報道フロアから新しいニュースが入ってきた。殴り書きされたメモには、川崎市の交差点で起きた痛ましい交通事故のことが書かれてあった。交通事故の内容は、東関東テレビのベテランアナウンサーによって朝十時のニュースで伝えられた。ディレクターも近くのテレビモニタでニュースを見ていた。

「今朝七時半ごろ、川崎市内の交差点で複数の歩行者を巻き込んだ交通事故が発生しました。死者二名、足の骨を折るなどの重傷者が五名、他にも数名の軽傷者がいる模様です。運転していたのは八十五歳の高齢者で、ブレーキを踏んだがブレーキが利かなかった、と話している模様です」

 幼児誘拐が解決した明るいニュースの後に、悲惨な事故のニュースを耳にしたディレクターは、暗澹たる気持ちになった。しかし、ディレクターは一瞬で気持ちを切り替えて、何か思いついたように午後二時からの情報番組のスタッフたちに指示を出した。
「今日は高齢者の運転事故に関する特集に切り替えるぞ。あと三時間しかないから、急いで準備しよう。番組の構成は俺が考える。まずは、リポーターを事故現場に派遣しろ。できるだけ目撃者の証言を集めて来てくれ。それから・・・・・・」


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