ウロボロスの遺伝子(16) 第4章 人文科学ユニット①
研究所のコアタイムが終わりに近づき、三々五々と自分達の研究室に戻る人が増え、食堂の賑わいが徐々に消えていった。
「食事はいかがでしたか?」白鳥が柔和な表情で二人に聞いた。
「大満足です。本当においしかったです」と黒田が答えた。
「ダイエット中なのに、ついついたくさん食べてしまいました」緊張感から解放された赤城が続けて言った。
「この話を聞いたら、食堂のおばちゃんも喜ぶでしょう。それでは、食事も終わったようですので、先程の話に出てきた人見さんを紹介しましょう」と青山が言った。
「私は残りの農作業がありますので、これで失礼します」白鳥はそう言い残して、エントランスに向かって歩き出した。赤城と黒田の二人は青山に促されて、人見が座っている円卓の近くに移動した。
「人見さん、こんにちは。こちらは内閣府危機管理局の赤城さんと黒田さんです」
青山が二人を紹介した。人見はやや青みがかった目が印象的な金髪の女性で、アメリカ人の母親の血を色濃く引いているようだった。
「二人のことなら知っているわ。コモリンつまり小森君のことだけど、彼から事前に聞いていたから」人見の日本語は流暢だが、言葉の端々にアメリカ的なアクセントやイントネーションが混じっていた。
「それでは、上の階の私の研究室でお話しましょう」嘗め回すような視線で赤城と黒田の二人を観察しながら、人見が言った。
人見=マリアンヌ=麗子は、人文科学ユニットのユニット長で、心理学が専門である。人文科学ユニットは研究所の三階にあるので、四人は研究所の中央にあるエレベータで移動した。人見の研究室はエレベータに最も近い所にあった。
「どうぞ、お入り下さい」研究室の鍵を開けた人見が三人の入室を促した。
「何だか、いい匂いがしますね」と黒田が言った。
室内は書棚とソファとミーティングテーブルだけの極めてシンプルな内装になっていた。ミーティングテーブルの上は綺麗に整理されていて、ノートパソコンと小さなフォトフレームが置かれていた。そのフォトフレームには、何故かふくよかな若い女性の写真が飾られていた。四人はミーティングテーブルの椅子に腰掛けた。
「人見さんが、この前の誘拐事件の犯人達の犯行動機を推定したんですよ」と青山が言った。
「犯罪心理のプロファイリングですね」と赤城が聞いた。
「いいえ、プロファイリングとは根本的に異なるわ」と人見が答えた。
「プロファイリングは、『こういう犯罪の犯人にはこういう人間が多い』という統計的な手法なの。この方法は、確率的に罪を犯した可能性の高い犯人像を示すものであって、プロファイリングで個人を特定することはできないわ」
「個人の特定には確実な証拠が必要だわ。今回の犯人特定には、コモリンによる顔認証や犯罪履歴がとても役に立ったわ。でも、犯人を絞り込むために、闇サイトを検索するなどのプロファイリング的な知識も使っているけど・・・・・・」
「私が試みたのは、犯人が特定された後に行なう心理学的手法よ。心理プロファイリングは、その人の性格や嗜好から心理学的な傾向を導き出すものだけど、本人も自覚していない深層心理までは辿り着けないのよ」
「私がしているのは、人の心理を深く掘り下げて深層心理に迫る研究よ。つまり、心理の深堀ね。私はこの手法を“心理サウンディング”と呼んでいるわ。サウンディングには“深さ方向の状態を調べる”という意味があって、地下資源を探査する物理探査などで使われているわ」と人見が説明を続けた。
「あなた方は、この写真に気付いたかしら?」と、人見がテーブルの上に置かれたフォトフレームを指差した。
「これは私の若い時の写真よ。自分で言うのもおかしいけど、写真を見ての通り、今よりも随分と太っていたわ」
「この頃、私には片思いの人がいたの。ハイスクールの一年先輩だった人よ。その彼に勇気を奮って告白したんだけど、当時の私の容姿のせいで見事に振られたわ」
「日本でもそうだけど、身体的に魅力がある人の方が価値が高いというような考え方、いわゆるルッキズム(外見至上主義)が世間的には溢れているわ。とても残念なことだけど」
「私は失恋のショックで食事が喉を通らず、日本語で何て言うのかしら・・・・・・、そうそう“激ヤセ”して今のような体型になったのよ」
「そうしたら、今度は私を振った先輩が、私に付き合って欲しいと手の平を返したように告白してきたの」
「もちろん今度は私が断ったわ。私の内面は、外面が変わる以前と全く変わっていないのにどうして? と強く疑問に思ったわ。この時に人間の心理の変化の複雑さに目覚めたの。私、それまでは勉強のできない劣等生だったけど、それから猛勉強して、アメリカの大学で心理学の博士号を取ったのよ」
人見は若かった頃の自分を思い出していた。