ウロボロスの遺伝子(15) 第3章 MADサイエンス研究所⑦
「まずは、基本的なことからお話しましょう。ウイルスは細菌とは異なり、DNAやRNAなどの遺伝子とそれを囲むカプシドと呼ばれるタンパク質で構成されています。それから、巨大なパンドラウイルスなどの例外を除けば、ウイルスは細菌の大きさに比べてかなり小さいのです」白鳥が徐にウイルスについての説明を始めた。
「今回盗まれた鳥インフルエンザウイルスは、RNAを遺伝情報として利用するRNAウイルスに分類されます。鳥インフルエンザウイルスは、このRNAとカプシドがエンベロープという膜で覆われた構造をしています。子供たちに発熱や水疱の症状をもたらす手足口病の原因となるエンテロウイルスも、このRNAウイルスに分類されます。ただし、エンテロウイルスにはRNAやカプシドを覆う膜状のエンベロープはありません」
「RNAウイルスは、DNAウイルスに比べて突然変異するスピードが速いと言われています。人に感染するインフルエンザウイルスも、本来はカモなどの水鳥を自然宿主として、その腸内に感染する弱毒性のウイルスであったものが、突然変異によってヒトの呼吸器への感染性を獲得したと考えられています」
「ウイルスを防ぐ免疫療法としてワクチンが使われますが、天然痘ウイルスはDNAウイルスなので同種のワクチンが長い間使えますが、インフルエンザウイルスはRNAワクチンなので、同種のワクチンを長期間使うことはできません」
「そのために、一度インフルエンザウイルスに感染して免疫ができても、変異したウイルスに再度感染してしまうリスクが常にあります」白鳥は学生に講義するように二人に丁寧に説明した。
「白鳥先生、基本的な質問なのですが、そもそもウイルスは生物なのでしょうか?」と赤城が聞いた。
「いい質問ですね。現在でも、生物の定義は厳密にはできていません。ですから便宜的に、『細胞を構成単位として、代謝と増殖ができるもの』を生物と呼んでいます。したがって、細胞を持たないウイルスは、この点では生物ではないことになります。しかし先程の説明のように、遺伝物質を持ち、人や鳥などの生物の代謝系を利用して増殖するウイルスは、生物と関連が深いことは明らかです。質問の答えになっていないかもしれませんが、ウイルスは生物と非生物の中間的な存在なのです」と白鳥が答えた。
「私の頭ではよくわかりませんが、生物学が難しいことはよくわかりました」と黒田が言った。
「私のように何十年研究しても、黒田さんと同じように、わからないことはまだまだ沢山ありますよ。イワノフスキーがタバコモザイクウイルスを発見してから今日までの間、ウイルスの正体についての考え方が何度も変わっています。僕は、ウイルスを正しく理解することが生物、最終的には人間を理解する鍵になると考えていますよ」と白鳥が続けて答えた。
「ところで、犯人達が脅しているように、鳥インフルエンザウイルスを増殖させてばら撒くことが可能でしょうか?」赤城が単刀直入に聞いた。
「残念ながら、できるでしょうね。細菌は適当な養分や水分があれば自己増殖できますが、ウイルスは単独では増殖することはできません。ただし、高度な専門知識と十分な設備があれば増殖は可能でしょう」と白鳥が答えた。
「当研究所なら確実に可能でしょうが、もちろん我々はやりません」
「この研究所には遺伝子工学の実験設備もあるんでしょうか?」黒田が聞いた。
「もちろんありますよ。ゲノム配列を解析するシーケンサやたんぱく質の構造を解析するクロマトグラフ質量分析計など、その他にも色々ありますよ」白鳥がゆっくりと微笑んだ。
「盗まれた鳥インフルエンザウイルスは強毒性ではあるが、今のところ人から人への感染は確認されていません。ただし、遺伝子の突然変異や人為的操作によって人型ウイルスに変わってしまうことも十分に考えられます。できるだけ早く回収することが重要です」と白鳥が続けた。
「それで、どこから手を付ければ良いでしょうか? 私共には見当もつきません。白鳥先生、何かアドバイスを頂けませんか?」と赤城が聞いた。
「私は刑事や探偵ではないので、詳しい捜査の方法は知りませんが、まずは、大学、国立研究機関、民間企業の遺伝子関連の研究者について、ここ数年で職場を辞めたり変わったりした人達を、小森くんに調べてもらってはいかがでしょうか?」
「それから、ウイルスが培養可能な研究施設や、そのための装置についても調べてもらいましょう。何かわかるかもしれません」
「今回の犯人は、毛利首相のアドレスを簡単に見つけ出したことからもわかるように、コンピュータやインターネットにも詳しいようですから、前回の誘拐事件のように簡単にはいかないでしょうね。小森君、やってくれるかな?」白鳥が小森に聞いた。
「――コンピュータに詳しいのか。これまでの話から考えても、かなりのスキルの持ち主だなぁ・・・・・・」何か思い当たる節があるのか、小森の表情が一瞬曇った。
「白鳥先生の頼みなら仕方ないなぁ。取り敢えず、ウイルス関係の研究者について当たってみます」自信なさそうに小森が言ったのと同時にモニタ画面の映像が消えた。