「人のために生きなさい」の危険性
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自分は何がしたいのだろうか?
そんな問いに苛まれる。
「人のために生きなさい」
そんな教えが横行する。
反面
成功者を見ると「自分のこと」ばかり考えてる奴らばかりではないか?
と思ったりです。
そして、自分はどうだ?
と問う。
その答えは、
是でもあり、非でもある。
そんなことが最近わかり出した。
なぜなら、
自分が見ている世界は本当に小さい。
小さいというよりも薄っぺらい。
たった、そのことだけでそれを判断できるか?と思うようなことがたくさんある。
「あの経営者は自分のことばっかり考えている」なんて思っていても
本当に話もしてないして、話したところでその人の考えなどわかりようがない。
(大概そんな人は優しかったりする)
人を非難批判することは、全くもって無意味であることがよくわかる。
しかし、こんな人にはなりたくないなんて人はいる。
そんな人から学べることはたくさんある。
では、
自分は何のためにいきているのか?
という問いに立ち戻る。
先日「経営はデザイン」という話をした。
その反面
「世のため人のため」
という言葉もある。
一見、「世のため人のため」
という言葉は、いい感じで優しいのだが、この言葉には、不足しているものがある。
「デザイン」だ。
つまり、「意志」「思い」「想い」「志」これらが不足してるのだ。
ではこれらの「意志」との関わり合いはどう解釈すべきか?
「デザイン」→「世のため人のため」
こういう図式が良いのではないか?
つまり、自分のやりたいことが、結果「世のため人のためになる」
という
こういう使い方がよいのではないか?
これを、マイナスに捉えて、
「私が引けば、」「世のため人のためになる」
という関係性を作るとダメなんじゃないか?
エネルギー的には逆むいているのではないか?
とおもう。
つまり、「世のため人のため」になるのは「結果」であって手段ではない。
ということがいえるのではないか?
自然のエネルギーをうまく利用するには「トーラス」という考え方が良い。
これは直感である。
根拠はない。
「私がやる」
「結果うまくいく」
この意志と
「私がしなければ」
「結果うまくいく」
というのと、若干のエネルギーの違いが読める。
「意志」
という概念にはエネルギーがある。
ある成功者の言葉
「決めたか?やったか?」
この言葉を胸刻む。
「世のため人のため」という一瞬耳障りの良い言葉は、意志を削ぐ危険性を孕む。そこに意志はあるか?
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