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学ぶことの危険性

人生は学びである。

学ばない人は、損をしている。

思っているのは、学んでいる人だけである。

学び、というのは、いわゆる、

「成功哲学」「自己啓発」の類ではなく、

「人としてのあり方」

である。

もちろん「成功哲学」や「自己啓発」も大きく逸れるものではなく、よく似たものである。

少し違うのが、

「HOW TO」ではないということ。

学ぶことは「あり方」の学びなので、

それは、誰にも評価されないし、

やることは地味だし、

結果も別に億万長者になるわけではないので、
よくある「私は90日でこんな結果がでました」
的あれ系に比べると大変地味である。

故に

非難もされる。

従って

基本、孤独である。

親との関わりは?
子との関わりは?
家族との関わりは?
先祖との関わりは?

など基本のことから

困難との関わり方
絶望との関わり方
他人の目との関わり方

という精神論

世界との関わり方
人生との関わり方
物との関わり方

に加え

最後に

自分はかくあるべきか?

という、問いに帰ってくる。

「スピリチュアル」と言われればそうかもしれない。

最近流行りの「量子力学的思考」

が、実にしっくりくるかもしれない。

だもんで、

成功哲学ではないが

成功哲学にも通ずる。


「自分は」「自分を」「見ること」は「決してできない。」

鏡や、映像という一回なんらかのフィルターを通さないと見えない。

実は、シンプルにこれが真髄で

「自分」という色・形・大きさ・歴史・背景・心は

他人から聞こえる「評価」、あるいは、何かの装置、反射で見えるもので成り立っている。

「自分」という存在は「ある」ことはわかっているのに

「ない」という結論になるのである。

そんな不思議な所業を学ぶ世界に仲間がいて、

理解し、

切磋琢磨し、

自己の襟を正せ、

自己革新につながる

自己革新すなわち、他人の評価となり

それは世界の評価という結論になる。


そんな世界観を持ち得て

いままで、そんなこと考えたこともなかった、

という方々とお話しするなんて機会があれば

それは、「すん」という感覚で

こちらはいいのだけど

「おそらく相手(学びをしないかた)にとっては気持ちの悪いもの」

「異形」

と映るだろう。

「異形」認定した人は「排除」という選択をするだろう。(なぜなら「受容」という選択は「学びの結果」でしかないから。)

それもまた、「評価の一部」なんだけど。

「学ぶ」というのは、そんな危険性があるものなんだ。

それは、日本刀に似ているのかもしれない

日本刀は性質上、人を斬るものであるが、人を守るためにしか使ってはいけないし、抜いてはならないという掟がある。

抜いたら最後の自分も死ぬ覚悟も必要なのだ。

そこにあるが、見えない。


あり方の象徴的である。


あなたは自分を知る覚悟はあるか?


常にそう問われる。


そしてそれは、身になり、世界となる。


ようこそ「学び」の世界へ




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