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№334 歯の痛がり方

歯が痛くなると、人は自然に痛がる動物です。

「いやワタシは我慢する」というヒトもいますが、
一般には我慢出来るものを歯痛とは言いません。

どうにもこうにも我慢出来ないのが歯痛なのです。

従って歯が痛くなった場合、
人はその痛みをそのまま痛がればいいわけであって、
この意味では正しい痛がり方も、
間違った痛がり方もないように思えるのですが、
実はそうではありません。

人は既に「自然に何かをする」ことなど
出来なくなっているのであり、
自然にやっているように見えるものも
よくよく観察してみると
前人のやったことを
踏襲しようとしているのであり、
しかもそれを少しずつ間違えているのです。

つまりこの点をきちんと確かめておかないと、
そのうちにボクたちは、
自然に痛がっているように見えてその実、
痛がってなんかいないんじゃね??
ということにもなりかねません。

これは由々しきことです。

もちろん、こう言うと多くの人々が、
「正しい痛がり方をすると、いくらかでも痛みが薄れるのかよ!」
とか、
もっと図々しいヒトは
「そもそも痛くなくなるのか!!」
とか質問してくるのです。

最近の学問はすべて、
現世的な利益に結びつけて
その力を誇示するきらいがあるから、
どうしてもそうなるのでしょう。

とんでもない話です。

「正しい痛がり方」というのはあくまでも、
それが「正しい」という点に価値があるのであって、
痛みそれ自体は「間違った痛がり方」をした場合よりも、
むしろ痛烈なものとなるのです。

痛くなければ「正しい痛がり方」も出来ないわけであるから、それは当然でしょう。

事態がここまで明らかになると、
せっかく「正しい痛がり方」を会得しようとして
参集した進取の気性に富んだものが
「それじゃ、やめる」と言い出す。

「痛みがなくなる」とか、
せめて「痛みが薄れる」とかいうのでない限り、
どうしてそれが「正しい」のかということが、
理解出来ないというのです。

これについては、
悲しむべきことと言わねばならないでしょう。

「正しい」ということは、
もしそれが本当に「正しい」のであれば、
あらゆる利害を超えて「正しい」のでなければならないはずではないのでしょうか?

ここでボクたちが問題にしようとしているのは、
単に歯痛に関する対処法のことではありません。

人間を人間たらしめる、
尊厳に関わることなのです。

従って 「間違った痛がり方」をしてもいいから、
いくらかでも歯痛の苦痛から逃れたいと希望する人間は、
これ以上これを読み進める必要はありません。

その苦痛が、更に苛烈なものになろうとも、
「正しい痛がり方」を逸脱することなく、
人間としての尊厳を維持したいと希望する人間だけが、読み進めて下さればいいのです。

それがいかに数少なくとも、
ボクはいささかも残念だとは思わない。

何故なら、ボクは知っているからです。

「間違った痛がり方」をした人間は、
それによって多少その痛みをやわらげるとが出来たとしても、
「それでもやはり痛い」という意味において、
そのことに満足することが出来ないが、
「正しい痛がり方」をした人間は、
それによって更に手酷い痛みを引き受けることになったとしても、
それでもやはり正しかったのだという意味において、
心からの満足を得ることが出来るのです。

しかもこの満足はほとんど
天上的な至福にも比すべきものであり、
ボクたちは遂に歯痛になってよかった!とすら、
考えはじめるほどのものなのです。

そこで、「正しい痛がり方」です。

何よりも大切なのは、
自分から「痛い」と言ってはならない、
ということでしょう。

「歯痛は孤ならず」と言われているように、
歯痛には必ず同情者がいるのです。
#いなければ見つけること
そいつの前でうめいてみせ、
「歯が痛いのかい?」と言わせる。

以後、
こちらの苦痛はすべてその同情者が、
「どこが痛むんだい?」
「どんな風に痛いんだい?」
「うずくのかい?」
「やり切れないほどかい?」と、
言葉にしてくれます。

そのようにしてボクたちは、
純粋に痛みだけを体験出来るのです。

従って、誰を同情者にするかについては、
いささかの配慮が必要でしょう。

一度も歯痛を体験したことのない奴、
などはやめた方がいいでしょう。

何度かそれを体験したことのある、
誠実で、思いやりがあり、責任感の強い人間が、
同情者としてはもっともふさわしいでしょう。

こうした同情者の前で、苦痛に耐えている時我々は、「正しい痛がり方」をしているということを
最も強く実感することが出来ます。

そして、言うまでもないことですが、
あらゆる楽、あらゆる医学治療。

あらゆる民間伝承による治療を、
ボクたちはことごとく拒絶しなければなりません。

「そんなことはやりたくない!」と言うのです。

どんな同情者だって、
そのことにそれほど深入りしたくないと考えている
から、
「こうしてみたらどうだい?」というようなことを、必ずひとつやふたつ提案してくれます。

それを受入れて、同情者に責任逃れをさせてはならないのです。

そして更に苦しみ、
その苦しみがどのようなものか、
同情者に説明させます。

この段階になると、
どんなに誠実な同情者も、
すきを見て逃げ出すことを考えはじめるから、
「まさか君!ボクを見捨ててゆくつもりじゃないだろうな!」というようなことを言って、
あらかじめこの種の希望を打ち砕いておく必要があるでしょう。

ともかく「正しい痛がり方」というものは、
同情者が同情者としての立場を維持し続けることによってのみ確かめられるものであるから、
これを手離してはなりません。

これの関心を失わせてもならないのです。

もしそんなことになったら、
その時ボクは「正しい痛がり方」をしていない、
ということになるのです。

もしボクたちが同情者に、
「キミは何故痛くないんだ!」と、
その不当をなじり、
「申しわけない!」と、
同情者の方が反省したら、
その時この関係は完壁になるのです。

ボクたちは「正しい痛がり方」をしているのです。

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