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イ・チ・モ・ツ 第6話
1、
「久しぶりね―、こんな明るい内に会うの久しぶりじゃない」
今日子の向かいの席でヒロ姉が弾んだ声を出した。
「いやー、キョンちゃんなんだか最近凄い人気じゃない」
「うん、まーね、おかげさまで」
午前一一時半、六本木ヒルズのパスタ店。さすがヒロ姉はオシャレな店をよく知っている。暑いのも嫌だけど、冷房の効き過ぎも自律神経の機能が乱れて美容に良くないんだって、今から気をつけときな、ヒロ姉はそう言って毛利庭園が見渡せるテラス席を選んだ。
イケメンの店員が水とメニューを持ってきて微笑む。庭園では照りつける日差しの中、キャミソール姿の若い女の子が彼氏と腕を組んで池の淵を歩いている。キャミソールの裾を揺らした南風が今日子たちのいるテラス席を吹き抜けた。
「よかったね―、私もうれしいよ、キョンちゃんちょっと前までずっと仕事のことでイライラしてた感じだったじゃない、ホラ、ほふく前進させられたとか言ってさ、いまだにやりたいことが出来ないって、それがあのイチモツ事件以降さ、なんかキラキラしてるもん」
「えー? なんかそれも微妙じゃない? イチモツがきっかけで輝いた女ってどうなの?」
顔をしかめて今日子が言うとヒロ姉がハハッと高い声で笑った。
あの日武蔵野の大地に突如出現したイチモツの様子をヘリでリポートして以来、今日子は何度も――イチモツが大井ふ頭で一時保管されていた時も、大井ふ頭から船で石垣島へ運ばれる様子も、海水を吸収したイチモツが急速に伸長のスピードを早め領土問題に発展した時も――あのイチモツのリポートを担当してきた。そして最初に出会った時から、あのイチモツはなにか自分と縁がある様な気がしてならなかった。そのせいか自然とイチモツのリポートの時にはいつも以上に気合が入り集中力が増した。それが視聴者にも伝わったのだろうか、今日子はいつしか「あのイチモツリポートの人」、「イチモツリポーター」、「イチモツリポートと言えば下平今日子アナ」などと認識されるようになっていた。
なんでも視聴者によると最初にあの物体を「イチモツ」と呼んだのは今日子だったらしい。女性アナウンサーが恥ずかしげもなく「イチモツ」という言葉を連呼したのは新鮮だったし、あの物体を表現するのに「イチモツ」という言葉ほどしっくりくるものは無かったので、ライブ中継でとっさにあの表現をひねり出したのは素晴らしい、ということで今日子は一躍注目されるようになった。
これまでアナウンサーとしては大して人気がある訳でもなく、これと言った売りもなく、いまいちキャラも立たずパッとしなかった自分が初めて世間から認められた。イチモツ事件をきっかけに自分は間違いなく一皮むけた。あのイチモツが自分を変えてくれた。あのイチモツに対してそんな思いが今日子にはあった。
「でも私もうれしいのよ、キョンちゃんがこうやって一皮むけてくれたところが、フフッ、イチモツのおかげで一皮むけたっていうのも笑えるよね……」そう言ってヒロ姉はケラケラと笑った。
あのイチモツの持ち主である竹内伸一という男性の勤めている会社が今日子の親友「ヒロ姉」こと西條博子が社長を務めるFLYING FLOGSであることを知った時は、とても驚いたと同時に今日子はやっぱり自分とあのイチモツとの不思議な縁を感じずにはいられなかった。
ヒロ姉とはもう十年近い付き合いになる。彼女が『女信長、西條博子』という自伝を出版した時に取材に行ったのが最初の出会いだったが、その後、今日子の先輩アナウンサーの結婚式の二次会でたまたま席が隣になり、そこで意気投合して個人的な付き合いが始まり、お互いのことを「キョンちゃん」、「ヒロ姉」と呼び合う仲になった。
年は一四も離れているのになぜかヒロ姉とは不思議なくらい気があった。ヒロ姉は「女織田信長」と評されるようにIT業界の風雲児とか、カリスマ的経営者のように見られていたが実際に付き合ってみるととてもざっくばらんで、細かいことにこだわらない大雑把な性格はとても男前で、お酒が好きで、酔っぱらうと羽目を外すところなどは今日子とよく似ていて、今日子はそんなヒロ姉が大好きだった。
二人で飲む時に行くのは決まって新宿の二丁目にある馴染みのゲイバーだった。そこで二、三カ月に一度くらい、本名は小田切正男という五十五才で独身の「まーちゃん」という名の髭の濃いママと一緒に、最近の男ってさ―……とか、全盛時の加藤鷹ってどんだけ凄かったのか一度お試ししてみたかったよね……とか、あの女子アナの原稿読み終わった後のカメラ目線、あれ絶対男ウケ狙ってるよね、気に食わなくない? とか……、朝まで毒満載、下ネタ満載のガールズトークをするのが恒例となっていた。
自身の部下であり、イチモツの持ち主である竹内伸一に関してヒロ姉は、私あんまり知らないのよね彼のこと、あのイチモツが巨大化したってニュースになった日、あの前の日に彼のプレゼンを聞いたくらいで……、特に仕事が出来るとかいう訳でもなかったみたいよ、見た目も普通の今時の若者って感じ……と言っていた。
これは他の関係者に取材しても大体同じで、竹内伸一は特にガタイのいいマッチョマンと言う訳でもなく。特に女性にモテるプレイボーイといったタイプでもなく、アイドルやアニメに嵌っているようなオタクでもなく、ごくごく普通の若者だったらしい。
ただその時ヒロ姉が「ちょっと、ああ、でもこれは関係ないか……」そんなことを言ったので、「なになに? 教えて」と今日子が聞くと「いや、うちに凄く仕事が出来る子がいてね、お料理番長ってアプリ知ってるでしょ? あれ開発した子、岡山くんって言うんだけど、その子ゲイなのよ、いや、本人からじゃなくて優子ちゃんって秘書の子から聞いたんだけど、ホラ一度会った事あるでしょ、その子から聞いたんだけどね、ゲイらしいのよ彼、私もよくゲイバー行くじゃない? だから何となく分かるのよ、そっちの気がある男の人って……、で、優子ちゃんが言うにはさ、その岡山くんが想いを寄せてたのが竹内伸一くんだったらしいのよ……、まあ、でも、こんな話関係ある?」とヒロ姉はそんな話をした。
竹内伸一に何か人と違う特徴があるとすれば、思いつくのはそれぐらいだったが、ゲイから想いを寄せられていたことと、イチモツが巨大化することに相関関係はあるのだろうか? さっぱり分からなかった。
「で、まだ調べてるの? イチモツのこと?」
カルボナーラとイカスミのパスタを一口ずつ交換しているとヒロ姉が聞いてきた。
「うん、休みの日も取材したりしてる」
「わー、偉い、偉い……」と言ったヒロ姉の口の周りにイカスミがべっとりくっついていて今日子は思わず笑顔になる。
あのイチモツの正体を知りたい、突き止めたい、そんな欲望を抑えきれず今日子は仕事の合間や、休みの日にもあちこちに出掛けてあのイチモツについて独自で取材を続けていた。
休みの日に仕事をする――そんなことは入社してから初めてのことだ。が、自分の興味のあるテーマに関してノート一冊持って一人で取材に行くというのは大学時代、放送研究会に所属していた頃よくやっていたことで、その頃の自分を思い出し少し懐かしくもあった。
「で、なんか分かったの?」口の周りをナプキンで拭きながらヒロ姉が聞く。
「うん、まあいろいろとね」今日子もイカスミのパスタを頬張りながら応えた。
「あのさ、ヒロ姉さ、キリンの首の話知ってる?」
「キリン?」
「うん、キリンの首も長いじゃない、あれダーウィンの進化論だと高い所にある木の実を食べてるうちに段々進化して長くなったって話だけど、最近ウイルスによる突然変異説っていうのがかなり有力視されてるらしいのよ、少しずつ長くなったとしたら中くらいの長さの首を持ったキリンの骨や化石が発見されていてもおかしくないでしょ? でも中くらいの首の化石はまだ発見されてないんだって、だからある時期に突然変異で一部のキリンの首だけが一気に長くなって、その首の長いキリンだけが生き残ったんじゃないかって」
「へー、面白い……」
言いながらヒロ姉はガーリックトーストにバリッとかぶりつく。
「でね、今回のイチモツの件に関してもその突然変異の可能性を調べてるらしいんだけど、彼、生まれた時から長かった訳じゃないしさ、いくらなんでも一日であんなに巨大化しちゃうってのはいくら突然変異でも度が過ぎるってことで、頭のいい世界中の科学者さんたちも今のとこお手上げ状態らしいのよ」
「ふーん、まあ、そりゃ仕方ないかもね……、でもさ、今までこの長―い人類の歴史の中でさ、そういう人いなかったのかな? あそこが異常に巨大化しちゃった人」
そう言ってヒロ姉はストローでオレンジジュースを吸い込んだ。
「それがさー、調べてみるとさ、いたみたいなんだよね――」
もしもし、すいません、わたくし汐留テレビのアナウンサー下平今日子と申しますが、今話題のあのイチモツについて少しお話を聞かせて頂きたくてお電話したのですが――。
先々週、仕事の合間にクイズ番組の収録などで何度か会ったことのある歴史学者の飯塚尚教授に電話で取材してみたところ、歴史上にもイチモツが巨大化した男の話がいくつか存在するという興味深い話を聞かせてくれた。
鎌倉時代に記された古い文献に、今の伊豆稲取辺りの領主だった伊東家という大名家の、蜂介という名の一八歳になる跡取り息子のイチモツが、ある日突然巨大化し大騒動になった話が登場するという。そしてその噂を聞き付け鎌倉の侍所から視察を命じられて訪れた役人が「はちすけのこれ、まるで竜のようにのびけり」と幕府に報告した旨が記されているらしい。
「ハハッ、笑えるね、鎌倉時代か……静御前も聞いたのかなその話……、イチモツの舞とか踊ってたら面白いね、しずしずやー……なんて」
パスタもガーリックトーストも平らげ、今度はデザートの抹茶アイスを唇の端につけてヒロ姉が笑った。
「他にもいくつか古い文献に載ってるらしいんだけどね、でも今回のイチモツみたいに島と島を繋いじゃうほどの巨大化はやっぱりないって言ってたよ」
「いや、でも分かんないよー、文章に残ってないだけでさ、もしかしたらこの日本列島だって元々は誰かの巨大化したイチモツかもしれないよ」
顔の前でアイスのスプーンを動かしながらヒロ姉がイタズラっぽい顔で言った。
「え……?」
ヒロ姉の突拍子もない発言にマンゴープリンを食べていた今日子の手が止まる。
「すっごい大昔にさ、今みたいなイチモツ騒動があって出来たのかもしれないよ、アメリカ大陸とか、アフリカ大陸も」
「えー? じゃあ、ユーラシア大陸も?」
「うん、極太だね」
そう言ってヒロ姉は爆笑し、今日子も口に入れていたマンゴープリンを少し吹き出してしまった。
ヒロ姉は時々今日子がまったく思いつかないような想像力豊かな発言をする。とってもくだらないのだがそのイマジネーションこそが彼女をカリスマ経営者たらしめている所以なのかもしれない。やっぱりヒロ姉は天才だ。これちょっと頂戴、と言いながら今日子のマンゴープリンをつまみ食いしているヒロ姉を見ながら今日子は改めて感心した。
「ところでさ、これさ、キョンちゃんにだけ言う秘密なんだけどさ――」
隣の席のオーダーをとっていたイケメン店員が去っていくのを確認してヒロ姉が急に声のボリュームを下げて言った。
「今日、キョンちゃん誘ったのもこの話教えたかったからなんだけどね……実はさ、うちの旦那さ、EDなのよ」
「ん?」
「勃起障害、インポ!」
「インポ?」
思わず反射的にアナウンサー特有のよく通る声で聞き返してしまい、ヒロ姉にシ―ッと言われてしまった。イケメン店員は聞こえていないのか聞こえていないふりをしているのか分からないが、笑顔を振りまきながらせっせと料理を運んでいる。
「恥ずかしい話なんだけどさ、二年くらい前からなのよ、そんでなんかさ、男の人ってそういうの結構デリケートだったりするのよ、何か自信なくしちゃってさ、元気ないのね……、いや、そういう意味じゃなくて……、うん、まあ、そういう意味も含めて全般的に元気無くなっちゃったのよ、それでED外来行ってみたら? って言って、三カ月ぐらい通ってるんだけどね、この間そこで面白い話聞いてきたって言ってたのよ」
「EDの先生に?」声のボリュームを下げて今日子が聞く。
「うん、そう、そこの先生から聞いた話らしいんだけど、最近ねED外来に来る患者さんの数が急増してるんだって、もう、ちょっとね、異常なくらい、その方面のさ、先生たちが集まる学会で話題になるくらいなんだって、私それ聞いてドキッとしてさ」
「ドキッと?」
ヒロ姉が頷く。
「そういうことに関する掲示板あるの知ってる? 夫のインポで悩む主婦たちが集う掲示板」
「そんなのあるの?」
「うん。そこでね、その掲示板で今もっぱら噂になってる都市伝説があって、あのイチモツが世の中の男性の精気を奪い取っているんじゃないか? って噂なの」
「えー? なにそれー」
今日子は思わずまた大きな声で返してしまった。
「信じられないでしょ、そりゃ私も信じてなかったけど、そのED外来の先生の話聞いてさ、あれ? もしかしたら? って思っちゃってさ……もうキョンちゃんに早く言いたくて言いたくてしょうがなくって、キョンちゃんさ、ちょっと調べてみたら? もしかしたら大スクープかもよ」
「えー、でもそれはないでしょー、ないない、バラエティならいいけどさ、一応報道だからね、私が今やってるの」
そう言って今日子はコーヒーを一口啜った。コーヒーの香りを吸い込みながら企画会議で自分が提案するところを想像してみる。
あの、イチモツのせいでインポが増えているって噂を特集してみたいんですけど……皆さん最近どうですか……?
とうに三十路を過ぎた女とはいえさすがに企画会議でそれを言い出す勇気は持っていなかった。なんだそれ? お前報道なめてんのか? と一蹴されるに決まっている。
「そーおー? 面白いと思ったんだけどなー……」
グラスに残った氷をストローでかき混ぜながらヒロ姉は口をとがらせた。
「駄目よ、無理無理、そんな都市伝説みたいな話じゃ企画の段階で即却下よ」
「でももうすでにイチモツ巨大化っていう都市伝説みたいなことが起きてる訳だからさ、世の中何が起きるか分からないよ……」
グラスの氷をストローでガシャガシャ突きながら、ヒロ姉は急に鋭い視線を上目遣いでこちらに向けた。
「いや……、でもねー……」
ヒロ姉の視線を避けてもう一口コーヒーを啜る。
いらっしゃいませー、何名様でしょうか? イケメン店員が爽やかな笑顔を振りまいている。多分彼を目当てに来る女性客もいるのだろう。もしも巨大化したのがごく普通のサラリーマンではなく、あんなイケメンや例えばジャニーズのアイドルだったりしたら、世の女性たちはどんな反応を示しただろう? イケメン店員の股間を見ながらぼんやりとそんな想像をしていると、イケメン店員と目があってしまった。ニコッと軽い会釈を返され気まずくなって思わず目をそらす。
「やっぱ無理よ、うちは報道だもん」
頭の中を見透かされたような気がして今日子は慌ててヒロ姉の意見を否定した。
2、
総理公邸のリビングで官房長官の大河内は総理の榎本を待っていた。
「すいません、もうすぐ参りますんでどうぞ召し上がっていて下さい」
ビールと軽い食事を持ってきた榎本の妻がそう言って出て行った。大河内はその後ろ姿をなめるように見つめた。いい女だな。あんな女と毎日やれるのが羨ましい……。七十五になった今でも現役、衰えをしらない大河内は下卑た笑みを浮かべビールをグイッと煽った。先程からリビングには榎本の趣味のジャズの曲が流れている。ジャズの名曲集だとか言っていたが大河内にはチンプンカンプンだった。なにがジャズだよ、カッコつけやがって、日本男児なら演歌だろ、心の中で大河内はそう毒付いた。
総理大臣の榎本は横浜出身の都会派で顔も二枚目で、身長は百八十センチあり、そのルックスは外国の首脳と並んでもまったくひけをとらず、女性から人気があり英語も堪能で何をやらせてもスマートで、改革派で、鹿児島出身の農林族議員でずんぐりむっくりした体形で演歌好きの大河内とは真逆のタイプの政治家だった。
まあそんなお坊ちゃんだからこそ、こっちも操ることが出来る。民自党のプリンスだとか改革派の星だとか騒がれて総理になったが、四十年間この永田町で生きてきたワシからみりゃまだ鼻たれ小僧だわ、大河内はそう思っていた。事実、若い榎本はここまで大河内の思い通りに動いてくれていた。
あのイチモツを石垣島に移そうと榎本に提案したのは大河内だった。あの伸び続けるイチモツを石垣島に移送することで、マスコミも国民もその話題一色になる。その間に総理のやりたい改革を進めればいい。大河内はそう言って榎本を説得した。
が、大河内の本当の狙いは自身の身に降りかかっていたSM嬢とのセックススキャンダルを揉み消すことにあった。そんなことも知らず榎本はまんまと大河内の計画に乗ってくれ、大河内は見事にスキャンダルの危機を回避することに成功した。フン、まあ、ちょろいもんだわ……。
大河内は立ち上がって腰を回し、肩を回し軽いストレッチをした。榎本のかみさんのくびれた腰とケツを見ていたらなんだか一発やりたくなってきた。明日辺りまたSMクラブに電話して四〇前後のいい女を用意してもらおう。なんせマスコミは当分イチモツの話題で持ちきりだ。遊ぶなら今だ。今でしょ!
腰を回しながら、昔流行ったそのフレーズを声に出した時、ちょうどリビングのドアが開き総理の榎本が入ってきて、大河内は慌てて姿勢を正した。
「すいません、お待たせしたようで」
榎本がスマートな笑みを浮かべてソファに腰掛ける。
「いえいえ、全然、ホラこのジャズが、いい曲がかかってるから、もう総理の影響で私も最近ジャズばっかりで……」笑いながらそう言って大河内もソファに腰を下ろす。口八丁手八丁。たやすいもんだ。俺はこれで永田町を生きてきた。
「そうですか、良かった」と榎本は微笑む。「で、用件は?」榎本が聞いてきた。
「ちょっとイチモツの件でちょっとおかしな情報が上がってましてね」
そう言って大河内は持ってきた資料を何枚かテーブルの上に広げた。
「おかしな?」
榎本がスーツのポケットからメガネを取り出し資料を手に取る。
「ええ、いや、まあ、なんか眉唾もんの情報で、そんな気にするほどのことではないと思うんですが、まあ、マスコミの連中は変な噂好きでしょ、ねえ?」
榎本は大河内の問いかけに対しては何も答えず大河内に一瞥をくれただけで再び資料に目をやった。先を続けろ、という意味だ。一年間の付き合いで大体そのくらいのことは分かるようになった。フン……、鼻たれ小僧が偉そうに……。大河内はこの榎本の表情が嫌いだった。
榎本は超合理的な男だ。いつも要点だけを求めてくる。大河内は榎本が民自党の重鎮連中からいまいち人気が無いのはこういうところに原因があると思っていた。スピード重視、効率重視、付き合いが悪く、政治活動費は国民から貰った税金が入っているのだから贅沢は出来ないとか言って会合は料亭でなく一般庶民が飲みに行くような居酒屋やレストランを使う……、日本酒じゃなくてワインで乾杯……。大河内の世代の人間はこういうところがいちいち気に食わない。肌に合わない。
昔は政治家同士の話し合いと言えば料亭で酒を飲み、芸者のケツを触って下ネタも交えながら行ったものだ。政治は妥協の産物だ。スポーツのように白黒はっきりつけるものではない。永田町の交渉事というのは大体グレーで決着するものだ。今回はこちらがちょっと譲ったんだから次は頼むよ――そういう微妙なさじ加減で決まる。普段から酒を酌み交わし、遊んだ女の話題で盛り上がる――そういう腹を割った付き合いをして信頼関係を築いた政治家同士でないとそういった芸当は出来ない。
そういう所が分かってないんだよな、このお坊ちゃんは……。
「大河内さん、説明お願いします」
突然声が聞こえ大河内はハッとなった。榎本がクールな表情でこちらを見つめている。
「あ、ああ。いや、このジャズがいいから、なんだか聴き入っちゃって……」
訳の分からないメロディを奏でるサックス・ソロを聞きながら、大河内は今日厚労省の事務次官が報告してきたその訳の分からない現象の説明を始めた。