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イ・チ・モ・ツ 第7話
1、
続いてはこのコーナーです。チャ―チャ―チャ―、チャッチャッチャラララン! ハイ! ということで私、下平今日子がお伝えします「特捜スクープ最前線!」。このコーナーはですね、それって本当なの? と思わず首を傾げてしまうような世の中の噂を検証するコーナーです。今日はですね、今ネットを中心にまことしやかに囁かれているこの噂を検証してみたいと思います。ジャン! 「少子化の原因はあのイチモツのせい?」、この噂です。ええ、そうですよねー、皆さん信じられないという表情ですよね。ところが今この噂、妊娠する女性の数が今年の六月あたりから減っているという噂が一部ネット上で話題となって、その原因をめぐって大論争が起きているんです。いったいこの噂は本当なのでしょうか? VTRをご覧ください、特捜スクープ!
もしかしたらあのイチモツが世の男性たちの精力を奪っているんじゃないか……?
あの日イケメン店員がいるパスタ屋でヒロ姉の話を聞いた今日子は、そんな事ある訳ないじゃない……と思いながらも、家に帰ってからなんとなくその話が気になってパソコンで「イチモツ ED 急増」と検索してみた。すると、出るわ出るわ、ヒロ姉が言っていたようにEDの急増に関しての情報が山ほど出てきた。
うちのクリニックでED患者急増中、いったい何が起きているんだ?
やっぱあのイチモツのせいか? まあうちは儲かっていいけど――
デリやってんだけど最近お客さん超減ってる、お店の女の子はみんなイ
チモツ不況って言ってるwww――
コンドームの売り上げヤバいくらい落ち込んでる、うちの会社マジやば
いらしい――
産婦人科医ですが最近明らかに異常なくらい患者さんが激減していま
す、こんなこと開業以来初めてです――
ソープ嬢です。インポの人絶対増えてると思います、インポじゃなくて
も前は3回イッテたお客さんが2回とか1回になったり……絶対なんか
起きてると思う。あのイチモツのせいで。だってちょうど3カ月前くら
いからだから――
もうすでにイチモツ巨大化っていう都市伝説みたいなことが起きてる訳だからさ、世の中何が起きるか分からないよ――パソコンの画面を見ながら今日子はヒロ姉が言っていたことを思い出した。
確かにそうかもしれない。こうした書き込みを見ているとなんだかヒロ姉の言っていたことが真実味を増してくる。
特に今日子が気になったのは「産婦人科医ですが最近明らかに異常なくらい患者さんが激減しています、こんなこと開業以来初めてです」という書き込みだった。妊娠する女性の数も減っているのだろうか? だとしたら大問題だ。財政問題も、年金問題も、今日本が抱えている様々な問題が少子化の問題と関わっている。ただでさえ少子化なのに、あのイチモツのせいで少子化の進行に拍車がかかっているとしたら……。
ものは試しだ。一度調べてみるか……。
そう思って今日子は翌日「すいません、汐留テレビの下平と申しますが……」と都内の産婦人科に片っ端から電話取材してみた。すると――。なんとほぼ全ての産婦人科で今年の五月六月あたりから妊娠検査に訪れる患者の数が激減しているという回答が得られたのである。
これはもしかしたら凄いスクープになるかもしれない……。
そんな予感がして今日子は、「イチモツのせいでインポが増えてるってそんなことある訳ないだろ」、「お前報道なめてんのか?」、「だから女はダメなんだ思い込みが強くて!」とわめきまくる頭の固い番組プロデューサーを粘り強く説得し「特捜スクープ最前線」のコーナーでこの話題を取り上げた。
はい今VTRでご覧いただいた通り、番組で独自に都内の産婦人科を調査したところ、これご覧ください、ホラ、こんなに! 今年の六月を境に明らかに異常な減り方、急激に患者さんの数が減っているんです。そうです、妊娠の件数自体が減っている訳なんです。そこで気になるその原因について専門家に見解を伺ってみたんですが、誰もが首をひねるばかりではっきりしたことはまだ分からない、ということなんですね。もしかしたら男性の精子や女性の卵子の活動を制限するような新型のウイルスが蔓延しているのではないか? そんな指摘をする学者さんもいらっしゃいました。が、これに関してですね、今ネットではある噂が広まって話題を呼んでいるんです。妊娠件数が急激に減り出したのが今年の五月から六月にかけて。この頃にこの日本で起きた特別なことと言えば? 皆さん思い当たりますか? ジャン! そうです。五月二十三日、あのイチモツが武蔵野の空に出現したのがちょうどこの時期なんですねー。そこでネット上では、ジャン! あのイチモツは世の男性たちのエネルギーを吸い取ってあんなに巨大化したのではないか? とか、妊娠件数が激減したのはあのイチモツが原因なのではないか? という噂が大変盛り上がっている訳なんです――
「特捜スクープ最前線」のこの特集は驚くほど大きな反響を呼んだ。放送後番組のホームページには、うちも五月頃からセックスレスです……、私の夫も今年の梅雨入り前くらいからEDなんです……、自分はまだ三十代前半ですが五月頃から性欲が減退しました……などなど、普段の数百倍にのぼる意見が寄せられた。
そして事態が大きく動いたのは、日頃少子化問題に熱心に取り組んでいた共産党の国会議員が、たまたまこの今日子の「特捜スクープ最前線」のコーナーをテレビで観ていてこの問題を国会で取り上げたことがきっかけだった。
この女性議員は早速翌週の予算委員会で、先日あるテレビ番組で興味深い特集を拝見したのだが、妊娠件数が激減しているという事実を厚労省は把握しているのか? と厚生労働大臣に質問し、答えられない大臣に代わって「把握しています」と渋々答えた厚労省の事務次官に対してさらに、「このままだと出生率はどのくらいになるのか?」と質問した。するとこの質問に対し厚労省の事務次官は、「このままのペースで推移したとすると来年の出生率は過去最低だった二〇〇五年の1.26を大幅に下回り、0.7から0.8ぐらいになるのではないかと思います……」いう驚きの予測結果を公表した。
こうしてこの、イチモツのせいで妊娠件数が減っているという話題は一気に社会をにぎわす大問題となったのである。
あのイチモツと妊娠件数の激減に関連性はあるのか? この疑問に対し政府はまだ不明確な要素が多く原因は特定できない、という見解を示していたが、噂が広まるのは早い。特にそれが誰もが関心ある下半身にまつわるデリケートな問題であっただけに余計に早く、噂は加速度的に日本中に広まった。
テレビのワイドショーは連日この噂を取り上げ、週刊誌では「あのイチモツが日本男児の精気を奪った」、「インポ急増はあのイチモツが原因!」という特集が組まれ、世間では、あのイチモツが巨大化したせいで世の中の男性の精力が減退している、セックスレスの夫婦が増えている――という説が完全に既成事実となりつつあった。
こうなると過激な意見も出て来る。あのイチモツが領土問題を引き起こし、中国との関係を悪化させ、更に少子化問題の元凶にまでなっているならば、いっそのことあのイチモツを切断して海に沈めてしまえばいいのではないか……? そんな意見がアンチ榎本政権の左寄りの人々を中心に高まっていた。
それに対し榎本政権支持派の人々は「イチモツは自然現象だ」、「日本の領土だ」、「イチモツの持ち主が生きてる以上、それを勝手に切り落とすなんて人権侵害だ」などと反論し、「イチモツ支持派」と「反イチモツ派」の間で激しい論戦が繰り広げられるようになった。
世の中が動く音が聞こえる――報道の現場ではそんな表現がある。たしかに報道の仕事に携わっていると何年かに一度、誰かの発言をきっかけに、何かの事件をきっかけに、この日本という巨人が動き出す音が、世論というモンスターがノシリノシリと方向転換をする音が聞こえる時がある。
今日子は今まさにその音を聞いていた。その大きく揺れる音の波の真っただ中にいた。今回その最初の波を起こしたのは自分だ。モンスターを起こしたのは自分だ。そのことに今日子は興奮と、責任と、畏れを感じていた。
2、
「ちょっと委員長! 委員長! 問題発言でしょ今のは、撤回させて下さい」
この日の予算委員会は荒れに荒れていた。
質疑を行った野党第一党「新党つばさ」の幹事長代理で元タレントの青森恵子はこのところ世間で大騒ぎとなっているイチモツと妊娠件数の激減の関連性の問題を取り上げて、「総理がこの事実を知ったのはいつか?」、「政府はこのことについてどういった対策を持っているか?」と総理の榎本を鋭く追及した。
それに対し榎本が、それに関してはまだ因果関係がはっきりした訳ではない、あくまで噂に過ぎない、政府としてはまず正確な事実の把握と検証に努めているところだ――とのらりくらりと質問をかわしていると、「そんなことじゃ遅いんですよ、総理、総理」と苛立った青森恵子が「EDの患者が増えているのは紛れもない事実なんです。そこで伺いますが、総理ご自身はどうなんですか?」と際どい質問をぶつけてきて、榎本が苦笑いしていると、榎本を助けようと思ったのか隣に座っていた官房長官の大河内が立ち上がって「総理に代わってお答えします。私はビンビンです」と答えて議場は大爆笑となり、さらに調子に乗った大河内が「なんだったら今夜確かめいただいて構いませんよ」と発言しことで、「今のはセクハラ発言だ」と野党側から抗議の声が上がり、委員会は紛糾し一時中断となっていた。
野党議員らが委員長を取り囲み抗議を続けている。榎本の隣の席では野党の席から飛んでくる野次に対し大河内が「最初に仕掛けてきたのはそっちだろ」、「ビンビンだからビンビンだって答えたんだ」、「お前らどうせフニャフニャなんだろう」と顔を紅潮させながら応戦していて、さすがにこれ以上問題発言が飛び出すのはまずいと思ったのだろう、文部科学大臣の坂上と厚労大臣の堤下が「まあまあ」と立ち上がろうとする大河内の肩を押さえて必死になだめていた。
まったくこの時代錯誤のおっさんはいろいろと足引っ張ってくれるよな……。その様子を横目で見ながら総理大臣の榎本は心の中でそうつぶやいた。
大河内は榎本よりも二十五歳も年上で当選十五回の大ベテラン、民自党の第一派閥吉田派のナンバー2だ。党内第三勢力の小池派に属する榎本は改革を推し進める為に、敢えて敵対する吉田派に手を突っ込んで大河内を官房長官に抜擢した。
大河内は民自党議員の間では陰でタヌキと呼ばれている男だった。一五年前、民自党吉田派の改革派の議員たちが政界再編を狙って野党第一党――新党つばさと協力して新党結成に動いたことがある。いわば民自党内のクーデターだ。大河内はその中心にいた。が、当時の民自党幹部たちの凄まじい切り崩しにあい、あと一歩という所でこのクーデターは鎮圧された。この切り崩し工作の中で最初に仲間を裏切り寝返ったのが大河内だった。この政変の後実施された改造人事で大河内は民自党の幹事長に就任した。
出世のためなら平気で仲間を裏切る――はっきり言って榎本が人間的に一番嫌いなタイプだ。逆に向こうも自分のことを嫌っていることも分かっている。大河内が陰で榎本のことを「はなたれ小僧」呼ばわりしていることも、「あんな若造ちょろいもんだ」と自分の意のままに榎本を操った気でいることも、全て榎本の耳に入っていた。バカな爺さんだ。自分が操ってるつもりで本当は俺に操られてることに気付きもしない。しかしバカはバカなりに使いようがある。こういう人物を使いこなすことが出来なきゃ政権運営は成功しない、そう思って榎本は大河内を官房長官の座に据えている。
自分は豊臣秀吉型のリーダーになる必要がある。榎本はそう考えていた。秀吉は信長につかえていた時に、敵を徹底的に叩きのめす完璧主義者、信長のやり方を見ながら、このやり方では天下統一するまでに百年かかる、と思ったそうだ。だから秀吉は敵を許し、懐柔し、妥協した。気に入らない敵を全て排除していては大事は成し遂げられない。敵を含めて周りを上手く巻き込んでいかねばならない。約二十年の議員生活で何人もの総理大臣を見てきたが、それが出来ない総理は必ず失敗していた。百点を目指して0点に終わるのが一番マズイ。妥協が大事、妥協こそが政治だ。
あのイチモツを石垣島に配置しようという計画はこの大河内が持ってきた。大河内は改革を進めるためのカムフラージュだとなんとか言っていたがそれが嘘なのは分かっていた。あのタヌキ爺さんが考えていたのはあの時自身に降りかかっていた女性スキャンダルを揉み消すことだけだったはずだ。その情報もしっかり榎本の耳に入っていた。が、そこは榎本は敢えて騙されたふりをして大河内の案を飲んだ。実際大河内の計画は改革を進めたい自分にとって非常にいいアイデアだったので榎本はその計画にゴーサインを出した。
その結果として予期せぬ産物に恵まれた。イチモツが物凄い勢いで中国大陸へ向かって伸び始めたことだ。これを利用しない手はない。榎本はそう思いイチモツを島だと主張し東シナ海のガス田の権益を確保することを画策し始めた。
日本はいつデフォルトの危機に陥ってもおかしくない、榎本はそう考えていた。いや、榎本だけではない。財務省も、IMFも、アメリカ政府も、そして世界中のヘッジファンドも同じ考えを持っているはずだ。
今から十数年前、日本は長いデフレ不況と超円高で苦しんでいた日本経済を立て直すために異次元の金融緩和を行った。
金融緩和というのはモルヒネのようなものだ。政府と日銀は日本という名のガン患者の体力を回復させるために今までの常識では考えられない量のモルヒネを打った。日本という名のガン患者の体力は急激に回復した。円安になり企業業績が改善し、株価は上がり、患者も、その家族も、医者も、みんなハッピーになった。本来ならこの体力が回復した時点で、抜本的なガン摘出手術――日本経済にとって避けては通れない痛みを伴う構造改革――を行うべきだったのが、元気になってガンは完治したと勘違いした日本という名のガン患者は勝手に病院を退院して歓楽街に遊びに行ってしまった。家族も、これを止めようとしなかった。医者はほどほどにして下さいよ、と注意したもののやはり本気で止めようとはしなかった。その後しばらくすると日本という名のガン患者が病院に戻ってきて、また具合が悪くなったからもう一回モルヒネを打ってくれと言ってきた。医者は渋々モルヒネを打った。再び元気になった日本という名のガン患者はまたもや病院を飛び出し歓楽街に走り、また具合が悪くなるとモルヒネを求めて病院に戻ってきた。そんなことを繰り返している内にモルヒネを打つサイクルが段々と短くなり、モルヒネは徐々に効かなくなってきた。これは最後の手段だ、手術しかない! と思って診てみるとガンは既に全身に隈なく転移していてもう手術の施しようがなかった――。
これがこの十数年間に日本経済に起きていたことだ。
抜本的な構造改革には手を付けず、手っ取り早く株価を上げることの出来る金融緩和にばかり依存してきた。それがもう限界にきている。しかも数年前の新型コロナの感染拡大がもたらした大不況のせいで日本経済はガタガタだし、落ち込んだ景気を何とかしようということで連発した数十兆円規模の経済対策のせいで日本の財政状況はさらに悪くなった。オリンピックの開催が決まってからずっと上昇し続けてきた東京の地価もここ最近は下落傾向だ。これまで日本に集まっていた外資マネーが引き揚げている。日本国債暴落の黄色信号が点滅し始めていた。
最近では景気をよくするためにどんどん日銀が円を刷って国民にバラまけばいい、通貨発行権を持っている日本政府が財政破綻する訳がない、というMMTとかいう学説を支持する政治家やコメンテーターが増えていた。野党の中にも消費税を廃止して毎月国民全員に十万円を配るというマニフェストを掲げる政党が台頭してきた。が榎本から言わせればそんなものは議論する価値もないとんでもない出鱈目だ。数が少ないものは価値が高くなり、数が多いものは価値が下がる――これは経済の初歩知識だ。どんどん円を刷ったらどんどん円の価値が下がってしまう。そんな簡単なことがなぜ理解出来ないのだろう? やはり国民はバカだ。マスコミもバカだ。バカな連中がバカな学説を支持してそいつらの票を取るためにバカな政治家がポピュリズムに染まったバカなマニフェストを掲げバカな政権が誕生しバカな政策を実行したら日本政府は世界のマーケットから信用を失い円は暴落するだろう。マーケットは冷淡だ。しかも今はスマホ一台あれば世界中誰でも為替取引を出来る時代だ。一旦円を売ってドルを買った方が儲かるという流れが出たら、日本中、いや世界中が円を売り始めるだろう。そうなったら誰も止めることは出来ない。
そうなる前に何としても東シナ海のガス田の権益を確保し開発を急がねばならない。榎本はそれが自分の政治家としての使命だと思っていた。
日本は資源のない国だ。強い円によって中東から石油や天然ガスを安く買って経済を回して来た。その円の信用が無くなったら今までの何倍ものカネを払わないと資源が買えなくなる。円が一ドル三〇〇円から四〇〇円の水準まで暴落し、日本でハイパーインフレが起きたら事態は最悪だ。ガソリンの値段が上がり、電気代が上がり、物価は何十倍にもなり日本経済はズタズタになり、失業者があふれ、国民の心は荒み、あちこちでデモや暴動が頻発するだろう……。
そんな状態になればかつてのドイツのようにきっと極右政党が台頭してくる。悪いのは中国だ、悪いのは韓国だ、悪いのはアメリカだ、と外に敵を作ることで支持を集めようとする奴が現れるに違いない。歴史を知らない無知な国民はおそらく最後の望みを託してそれに飛びつくだろう。戦争すれば全てが上手く片付くという魔法のような空気が日本を覆い始める。そうなったらお仕舞いだ。石油もガスも食料も買えない国が戦争して、どうやって勝てるというのだ。いつか来た道に逆戻りだ。
最低限必要なエネルギーを自給自足出来るような状態にしておけば国は成り立つ。それがこの国の将来を守る唯一の道だ。そのためにもあのイチモツを日本の領土だと主張し東シナ海のガス田の開発を進める必要がある。
相変わらず野党の議員たちが議長を取り囲んで抗議を続けている。
まったく最近の若い奴らは……、あの程度の洒落でピーピー騒ぎよって……。榎本の隣にいる問題発言の主、大河内は先程からずっとブツブツと愚痴っていた。その愚痴を左の耳で聞きながら榎本は、ダメなのはお前らの世代だ、分かってないのはお前らだ、と心の中で毒付いた。
日本の経済界には大河内のようなパソコンも英語も出来ない、仕事も出来ない、本来ならとっくに引退すべき爺さんたちが、いまだに社長や会長の椅子に居座って経営に影響力を行使していて、若い才能の芽を摘み、若い人たちの優れたアイデアを潰して日本の活力を奪っている。
日本の政界では日本という国が破綻なんてする訳ないと思い込んだ危機感のない政治家たちが、目先の選挙に勝つために無駄な公共事業をばらまいて、増税を先送りし、本来ならとっくに役目を終えたはずの企業や団体をゾンビのように生きながらえさせて経済の活性化を阻み、やるべき改革を先送りしてきた。その結果国の借金は破裂間近なほどに膨らんでしまった。そのツケは全て榎本や榎本の子供たちの世代に押し付けられる。
榎本には十歳と七歳の子供がいた。二人とも男の子だ。わんぱくだが可愛いくて仕方がない。あんなに可愛い子供たちが将来徴兵に取られ戦地に向かう――そんな社会にだけはしちゃいけない。それだけは絶対に許せなかった。
今ならまだ何とかギリギリ間に合う。大河内のつまらない愚痴を左の耳で、野党議員たちのくだらない抗議を右の耳で聞きながら、榎本は強くそう思った。