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山陰地方縦走サイクリング旅 (トピックス)山陰ゆかりの人たち

1。水木しげる
 今年(2022年)は水木しげる生誕100年の年であることを、旅から帰ってから知った。そのきっかけは、NHK(衛星放送)で、「シリーズ生誕100年 水木しげる」という三部構成の番組が放送されたからである。1986年と1989年の3つの過去の番組で、人生の軌跡、ニューギニアの旅、遠野への旅を扱った内容を、ゲストと共に振り返る番組であった。そもそも、今回の山陰の旅を企画した際にも、水木しげるとは全く繋がっていなかったし、水木しげる記念館や水木しげるロードがあるということにもそれほどの関心はなかった。しかし、実際に訪れてみて、その存在の大きさに気付かされた。そして、霊の導きか、旅から帰還直後にこれらの番組に出会い、さらに人物についての関心が湧き、代表作「ゲゲゲの鬼太郎」について、その誕生の経緯や背景を考えるきっかけになった。大ヒットキャラクターのゲゲゲの鬼太郎のキャラクターが、誕生してから10数年経ってから、ひねくれた意地悪少年から、悪さをする妖怪を退治する正義感の塊のような少年に一変して、大ヒットにつながったという逸話は面白かった。
 生誕100年の今年3月初めに、生まれ育った境港で、100年祭が開かれ、ご存命の奥さんが挨拶に立ったという記事も目にした。そういえば、NHK連続テレビ小説で「ゲゲゲの女房」という番組がかつて製作放映されていたことにも気づかされた。
 ニューギニアの先住民部落を訪れた番組の中で、水木しげるが語った言葉に、印象深いものがあった。
 「今(現代社会)は"目に見えないもの"は、存在しないものと考えてしまうでしょう。でも、目に見えなくても大切なものは、"感じる"ことができる。ニューギニアの先住民は森に生きる精霊を、高く鋭いまま保たれてきた「五感」で感じることができる。都会生活で感度が低下した現代人には、妖怪や精霊が感じられなくなっている」
 というような主旨であったと思う。この言葉に、「星の王子さま」(サン=テグジュペリ)の「大切なものは目には見えない(L’essentiel est invisible pour les yeux.)」という名言が呼び起こされるのは私だけではないだろう。

2。森鴎外
 津和野を訪れることを決めた今年の春に、コロナ禍で封切りが2年延期になっていた「高津川」という映画が上映された。「高津川」は、津和野から少し下流で津和野川と合流して日本海にそそぐ川で、ダムが一つもない、日本一の清流と呼ばれる川である。映画は、この川の周辺に豊かな自然とともにゆったりと暮らす人々の姿を描いた作品。旅に出る前に観るつもりでいたが、機会を逃してしまった。
 私が住む東京都文京区は、森鴎外が長く暮らして多くの名作を残した地であることから、鴎外の生誕地の津和野町と姉妹都市として深い交流がある。今年(2022年)は、鴎外没後100年にあたる年であり、区内でも様々な催し物が行われた。7月3日(日)には、文京区主催の"森鴎外没後100周年記念事業「読み継がれる鴎外」シンポジウム"にオンラインで参加した。東大本郷構内の会場で対面の参加をしたかったが、残念ながら抽選で外れてしまった。鴎外をこよなく愛する文人や学者である、平野啓一郎、青山七恵、平出隆、ロバート・キャンベルが、鴎外について語る会であったが、とりわけ平野啓一郎の基調講演と、ロバート・キャンベルの話に興味を惹かれた。平野啓一郎の最近の著書である「死刑について」(岩波書店)が気になっていたのだが、彼が、森鴎外の作品を読み解き、考えることからこのテーマを発展させてきたことが理解できた。
 旅の六日目に訪れた津和野の森鴎外記念館は、真新しい近代的な建物であったが、入場者はおらずひっそりとしていた。隣に国指定の史跡として森鴎外旧宅も保存されている。鴎外の生誕から亡くなるまでの足跡が、私生活、軍医としてのキャリア、文学活動と作品、交友関係など多岐にわたって時系列で紹介されている。これを順番に見ているだけで1時間かかってしまう。森鴎外の作品は、青少年の頃から親しんだものが多いが、鴎外の幼少期のエピソードや性格については、初めて知るものもあり、とても興味深かった。例えば、同世代の男の子たちと野山を駆け回って遊ぶようなことはなくて、大人しくて一人で本を読んでいるのが好きな少年だったとか、お母さんがつきっきりで教育の面倒を見ていたとか、である。晩年のあの厳(いかめ)しい風貌からは、少年時代に内向的に過ごしていた少年の面影は感じられない。

3。加藤文太郎と植村直己

駅の待合室にある加藤文太郎の文庫

 旅の二日目、山陰本線浜辺駅で40分の乗り換え待ちがあり、一旦改札を出る。待合室に加藤文太郎の文庫が設けられていた。そう、ここは、日本の登山史で不朽の名を残した登山家加藤文太郎の生地だったのだ。新田次郎の小説「孤高の人」の主人公としても知られる。大正時代に六甲山全山縦走を始め、当時非常識と言われていた単独行での難しい登攀を次々と成し遂げた。しかし、厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難し、31歳の生涯を閉じた。「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じられたという。後にも先にも、"国宝"という言葉で形容された登山家はいない。町なかに記念館があるようだが、時間がなくて訪れることはできなかった。この時、思い出したのだが、通過してきた豊岡市は、もうひとりの国民的な登山家であり冒険家である植村直己の出身地であった。やはり、豊岡市に記念館があるようだが、町の中心からかなり外れた山間地にあるようだった。なお、植村直己は、上京後、板橋区に居住して、次々に冒険記録を塗り替える活躍をしていたので、板橋区に立派な記念館や彼の名前を冠した公共のスポーツ施設がある。もしかしたら、今の若い世代の人たちは、彼らを知らないだろうか・・・。

4。金子みすゞ
 迷いに迷って、結局訪問できなかったのだが、旅から帰ってすぐ放送された、NHK第51回講談大会で、「金子みすゞの生涯」が演じられたのには驚いた。訪問しなかったことを悔やむ気持ちがあらためて湧いた。

5。旅人
 津和野の宿で、夕食開始時、おかみさんがちょうど食事が終わったところだった一人旅の男性との間を取り持ってくれて、言葉を交わすことになった。興味深い話を聞くことができた。山梨県山梨市あたりの出身だという男性。長く病院勤務だったが、ちょうど定年退職をしたところ。継続して雇用されるのだが、この区切りで一ヶ月ほど休みを取らせてもらうことにして、兼ねてから考えていた計画を実行している途中だという。それは「本州を走破する」という計画!青森を出発して、はや20日以上すぎている。最初は走っていたが、さすがにずっと走り続けるのは難しく、途中からは走ったり歩いたり。コースは交通量が少ない日本海側をとってきた。あと二日で下関に到着する予定だという。ゴールは私と同じだ。何でも本州縦断走り歩きの大会があるそうで、参加者ひとりひとりが、通過した場所の記録を登録し、その記録が証拠として承認される仕組みになっているのだという。
 この人、翌朝になって分かったのだが、朝3時過ぎに最終目的地の山口県を目指して出発して行ったという。何という超人なんだろう!偶然とはいえすごい人に出会ったものだ。髪は薄かったので年上に見えたが、驚くほど顔艶が良かった。体つきも筋骨がしっかりしていた。こういう偶然の一期一会の出会いも、民宿風の宿に泊まる一人旅ならではのものであろう。

(終わり)

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