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2021年09月27日週 『歴史の中で語られてこなかったこと』、社会学ってなに?

9月27日から10月3日までの読書に関する日記・備忘・そのほか。

網野善彦・宮田登『歴史の中で語られてこなかったこと』

読んだことがあるような、ないような、そんな曖昧な記憶のままに読み進めていて、読み終わってからもモヤモヤした。終始既視感に囚われていたのも仕方がない。二人とも物故者で最新の情報にアップデートしようがないから。

歴史学の網野と民俗学の宮田の1980年代から1990年後半にかけての対談集。
「歴史から何を学べばいいのか?」と銘打ったまとまった第一部と過去の雑多な対談を集めた第二部。第一部の始まりは宮崎駿監督『もののけ姫』の話題からはじまる。官官接待、ポケモンショック、従軍慰安婦と当時の社会問題を挟み込みつつ、それまでの歴史研究の問題や民俗学的観点の必要性が語られていく。ポケモンショックと言われても若い人の中にはわからない人もいるかもしれない。テレビで放映されたポケモンのある回で、明滅する光の演出のせいでテレビを見ていた数百名の子供が昏倒し病院搬送された事件だ。現在、アニメーションのテレビ放映の際に差し込まれる「テレビを見るときは云々」というテロップはこの事件を契機に始まった。その事件を題材にして、宮田が次のように発言する。

「ポケモン」で全国の子供が二万人ぐらい卒倒したという話がありましたが、そもそもあの事件を精神医学だけで説明してもダメでしょう。
(中略)
子供たちには、潜在的に無意識の慣習があり、霊を憑依しやすかったのです。こともあろうにそれを、テレビ映像のピカピカした光の波長でやろうとして、大人が子供の世界に踏み込んでいった。

「霊が憑依しやすかった」とはいかにも民俗学的な表現だが、それはともかく、対して網野の発言。

あの事件は、子供の世界には、大人と異質なものがあるということをはっきり示した出来事です。

ざっかけない会話とは言え、さすがにいかがなものかと思ってしまうが、子供は小さな大人ではなく、子供には子供の精神世界がある。近世まではそれを理解して上で社会制度を作り上げていたが、その視点が現代では欠けているのではないか。その知恵を取り込むことが課題ではないかと問題を投げかけている。現代の、例えば「いじめ問題」など犯罪行為なのだから警察に引き渡すべき等の議論もあるけれど、もしかしたら、そういう次元ではない「子供には子供の精神世界がある」の観点で根本的に解消する方法が見つかるかもしれないなんてことを思ったりして。

微妙なところを引用してしまった。
史学と民俗学について素人ながら書いてみたいことがあるが、この辺で。

社会学ってなに?

先週買った『東京の生活史』を読む前に、編者の岸政彦の発言「この企画はやらなければならないと思った」を理解するために社会学の本を読み始めた。社会学そのものとその社会学が問題とする領域を儂があまりにも知らないからだ。もちろん、そんな迂遠なことをしなくても、『東京の生活史』を読むことはできるのだが、よりよく読むために必要なことに思えた。

それで読み始めたのが、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』。読み終えていない。知らない言葉が頻出して少し難渋しているけれども、わからないことはわからないままとりあえずカッコに入れて読んでいる。それにしても、社会学というのはつくづく何でもありなんだなと思う。一部の学者がメディアに出てタレント化・評論家化(悪い意味で)するのもわかる気がする。

小・中学校の同級生が亡くなったことを聞く。
これを書いている前日10月2日。急な話で吃驚する。じじいを自称してはいても、もし儂が今死んで「まだ若いのに」と言われる程度には若い、後期中年期だが、この先こういうことが増えていくのだろうな。ほんの10年前には頭でわかっても実感できなかった現実が身に迫ってきた。
若いときに身近な人が亡くなった時とは違う感覚が芽生えてきた。

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