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人間の本能にアクセスする方法『祈り』

やる気伝道師 日記 2020 vol.6
2020年4月17日(金)

『神様』とは、

私は神様を信じる派です。でもどの宗教にも入っていません。イエス・キリストが好きですがキリスト教徒ではありません。お釈迦さんの教えも好きですがお経は読めません。日本の神話や古事記も好きですが信心深くありません。

なんでキリストや釈迦や神道の教えが好きかと言うと、キリストや釈迦や古事記に出てくる神々が残した言葉や行動やストーリーが好きだから。そしてその言葉や行動やストーリーを通して伝えようとしていたのが、私が感じている『神様』と同じなんじゃないかと感じているからです。

私が感じている『神様』とは、“自然の摂理”であり、“エネルギーの流れ”です。それは私たちの周りにも、私たちの中にも、いっぱい在って絶えず流れています。

その存在や流れが見えて活用できるようになった人が、それを人々に伝えようとしてくれたのが、宗教になっていったのだと私は勝手に解釈しています。

『叫び』は『祈り』!?

そういった摂理やエネルギーを活かして生きる方法を教え伝えてくれていたのだと思うのですが、その中でも最も強い方法の一つが『祈り』ではないかと思っています。

生物には「叫ぶ」という本能的な機能が付いています。何かに襲われ恐怖した時に動物は叫びます。人間もビックリした時にギャーって叫びます。
叫んだところで助からないし、叫んでる暇があったら逃げた方がいいし、叫ぶことに生物的なメリットは、あまり無いようにも感じるが、なぜか叫んでしまう⁈

断末魔の「叫び」は、『神様』(自然の摂理やエネルギーの流れ)への本能的なアクセスなんじゃないかと感じる。自分の力ではどうしようも無い時になってはじめて『神様』に助けを求める。それは自分(エゴ)のちっぽけな力を超えた“自然の摂理”や“エネルギーの流れ”という『神様』の力にアクセスし活用させてもらうという本能なんだと思う。

「叫ぶ」という本能的な機能が、実は『祈り』なんじゃないかと感じる!

本来 人間には、その機能がついているが、自分たちの力だけで生きている気分になり過ぎて『祈る』という機能を忘れてしまっているのだと思う。

私はちょくちょく伊勢神宮や、家の近所の氏神様やお地蔵様、そしてご先祖様にお祈りします。また一人で居てどうしようもない気持ちになった時も祈ります。

そのお祈りはいつも、『神様、いつも お見守りいただき ありがとうございます!』『どうか私をお導きください』『どうか私をお使いになってください』『家族や仲間や日本や地球のために、どうか私をお役立てください』と祈る。

それは自然の摂理やエネルギーの流れに沿った生き方へ導いてくださいという願いであり、それは自分のちっぽけな力を超えたエネルギーを周りのお役に立つことにフル活用させてほしいという願いでもある。

自然の摂理に触れ、エネルギーの流れに沿う

自分を含む人々は、ついつい自分の力だけで生きてる気分に錯覚しちゃう。そんな時はいつもどこか不安が付きまとい居心地の悪さを感じる。
その逆に自然の摂理に触れ、エネルギーの流れに沿っている時は、なんとも言えない心地よさと安心を感じる。結局はそう生きることが幸せなんじゃないかと感じる。

私たちの周りや私たちの中にいっぱい在って絶えず流れている「神様・自然の摂理・エネルギーの流れ」とは、、、
愛であり、感謝の心や親切も、あたたかな優しさや思いやりも、人を喜ばせたい楽しませたいという想いも、場合によっては強さや厳しさも、仲間と共に創る喜びも、仲間と一緒に味わう感動や学びも、想像力や創造性も、知恵や力も、成長や変容も、、、そして元気や明るさも、素直さや正直さも、勇気や前向きさも、、、そしてそして『やる気』も!

やる気伝道師的には最後は“やる気”で締めくくらないとね!笑

なんか悟ってるみたいな偉そうなこと書いちゃいましたが、こんなふうに祈っていないと、ついつい自分自分って、自分だけの力で生きている気分になってしまう自分を知っているから祈っているだけですよ。そして何よりもこんなふうに生きることで幸せを感じることができると思っています!

ありがとうございます

義理と人情の やる気伝道師 出路雅明

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