「青い山脈」な時代。
「エスっていってね」と母親が中学生の私に話しかけてきた。「え、団鬼六?」とは聞き返さなかったが、何のことやらと続きを待つと女学校では慕っている生徒の下駄箱とかに手紙を忍ばせたりするのがよくあったらしい。そんな女学生同士の疑似恋愛的なことを「エス」と呼んだのだそうな。で、自分はそういう手紙をけっこうもらったったんだからという自慢話なのだ。返答に困るようなことを突然言う母親なのだった。
母親と父親はともに昭和6年生まれ、福島市で学生時代に旧制中学から新制高校への切り替わりに遭遇している。まさに「青い山脈」の時代なのだが、あの世界はほんとうのところどうだったのだろうか。映画は一地方の高等女学校が舞台だ。その一地方の高等女学校生だった母親の学校生活は?
気まぐれに書かれた日記や友人たちの証言によると、商家の末娘だった母親はかなり奔放で自由気ままなタイプだったらしい。授業は抜け出す、気が乗らないからとテストを白紙で出して呼び出されることもあった。放課後は街の文芸サークルに出入りして大人たちと文学論に興じる。「推し」は太宰治、デカダンとアンニュイな雰囲気がお気に入りの典型的なミーハー。来る共学化に向けて交流が盛んだった男子校にも足繁く通い写真部でモデルを務めたり。通りでばったり会ったお気に入りの先生にはちゃっかりコーヒーをおごってもらっている(それで噂が立ったことがあるらしい)。父親も負けず劣らずの学生生活で、文芸部と水泳部を掛け持ちして、ようやく自由に観られるようになった洋画を封切りを待っては観に行く日々。気になる女性にもなかなか積極的にアプローチをしている。あの時代は異性に声をかけるのも勇気が必要で、なんて聞くとほんまでっかな「THE・青春」ぶりなのだ。
父親も母親も口を揃えて言っていたのは「戦後価値観が180度変わって、今まで威張っていた先生ほど小さくなっていた」ということ。理解のある先生は相変わらず悩みもよく聞いてくれたから学校はとても居心地がよかったという。
映画「青い山脈」の舞台のモデルは弘前市といわれている。弘前市は空襲を受けていないが、福島市も市街はほとんど無傷だった。生々しい戦争の傷跡が生活の周囲になかったというのは、焼け跡で途方に暮れる中から立ち上がるのとは雲泥の差がある。映画が提議している古い因習や男女差別の問題はもちろんあったにせよ、「古い上衣よさようなら」という風は確かに吹いていたらしい。ちなみに生前父親がマイクを回されてきて歌うのは決まって「青い山脈」だった。
見出しの画像は「大瀧めぐみ」さんの作品をお借りしました。ありがとうございます。母親が女学生だった昭和22~23年頃は、まだモンペを代用することも多かったようです。