スカルノ・ハッタ国際空港で「護送」された。
28歳の時、当時勤めていた会社の同僚と正月をバリ島で迎えようという話が持ち上がった。スハルト政権下で、大規模な観光開発が進められ、一躍世界のリゾート地として脚光を浴びてきた頃のバリ島だ。編集・企画というセクションでやれレイアウトだやれ原稿だと、それなりに面白おかしく日々を過ごしてはいたが、学生時代に脳卒中で倒れた父親の事も常に気がかりで、どこかでシフトチェンジを求めていた。
12月28日、ガルーダ・インドネシア航空の機上の人となり一路南の島へ。赤道付近の美しいリーフを眼下に間もなく経由地のジャカルタに。
と、そのジャカルタで「事件」は起きた。周囲の同じツアーの乗客がどんどん降りていってしまった。単なる経由地だと思っていた私たちは、最後にまで「居残る」形になり、客室乗務員に尋ねた。「あのー、この飛行機デンパサール空港(バリ島)まで行きますよねー」「へ、何言うてまんねん。この飛行機はこれからシンガポールへ行くんでっせ」「えーっ」というやりとりがあり、慌てて機外へ。能天気な日本人御一行様は、どこでどう勘違いしたのか、乗ったままの経由地としてトランジットを捉えていたのだ。
急かされるまま外に出ると、絡みつくような熱気が私たちを出迎えてくれた。そして、促されて乗り込んだのはインドネシア国軍の軍用車。(「force」に乗せてもらうのは自衛隊のヘリコプターで遊覧飛行をした幼稚園の時以来だ)自動小銃らしきものを抱えた兵士に左右を挟まれて入国手続きのターミナルまで数分間のドライブとなった。チラチラと横顔を伺うが、テキはじっと前を向いたまま表情ひとつ変えず、話しかけるなどもってのほか。たった数分、されど数分の「針のむしろ」状態。きっと「平和ボケの日本人が降りるの忘れちゃったみたいなのよ。ターミナルに戻るんなら乗っけてってくれない」と言われ「しょうがねえなあ」となったのだろう。今もって思い出すに恥ずかしい。