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スマホを落としただけなので。

長い長い幻覚から解放されてようやく一般病棟に移ることができたのはいいのだが、今度はまったく眠れなくなってしまった。急性期リハビリも始まり体はそれなりに疲れているはずなのだが、一向に眠くならない。消灯時間になり病院が静けさに包まれると、えもいわれない静寂との闘いが始まる。ICUやHCUでも眠れなかったのは同じなのだが、半分はどこかへ行ってしまっていたので、夜というものがこんなに長いとは思わなかった。

ぼんやりとテレビの画面を見ながらようやく手元に戻ってきたスマホを操作してみる。2カ月近く寝たきりだった手足はその力をほとんど失い、いつの間にかスマホの重量は一升瓶くらいになっている。ためしに文字を打ってみると、二文字も続けて打つことができない。「よる」と打とうとすればいつのまにか「るるるるる」とまるで「夜明けのスキャット」だ。やれやれ、こんなことも出来ないのかとつけっぱなしのテレビに目を移すと、力の入らない手からスルスルとスマホが抜け出し、カタッと床に落ちる。またやっちまた。こんなことが幾度も繰り返される。

スマホを落としたくらいでナースコールは出来ないなと思うので、誰かが見回りにきてくれるのを待つ。時には朝食を運んできていただいた時に「あのー」とお願いをする。なにしろ車椅子への移動もまだ一人ではできない。夜更け前に落としてしまったときには、朝までの時間がさらに長くなる。何かを考えようとする気力もないから、夜はただ虚ろな時間だけに包囲される。

糸魚川市の大火事もそんなぼんやりとした時間の中で見ていたような気がする。ああ街が燃えているなあ、なんて心の中で呟くのが精一杯の感想だ。それから窓の景色はどんよりとモノクロームになった。ほどなくして初めて迎えた病院での新年にもさしたる感慨はわかなかった。感情というものが戻ってきたのはそれから少したって車椅子で自走できるようになってからじゃないかと思う。落としたスマホも自分で拾えるようになった。

見出しのイラストは「へん」さんの作品をお借りしました。ありがとうございます。もともと寝付きはいいので、今は横になるや否やほぼ「瞬睡」の人になっています。


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