本棚の中身・旅の誘惑
桜の季節が終わると風が運んでくるニオイが変わる。薫風にはまだ早いが、その序章といった感じのニオイだ。まだ日々の勤めに励んでいた頃、朝の通勤でこのニオイを感じると決まってこのままどこかへ行ってしまいたい欲望に駆られた。不満と言っても身捨つるほどのことではなく、かみしめるほどの幸せもない、そんな宙ぶらりんな心の隙間に入り込む、甘く危険な香り。
ゆめゆめつられて行く事のないように、歯止めとして旅の本はある。なんてことはないが、その旅人のつぶやきや感嘆、あるいはシャッターを向けた対象からその香りをかぐのがいい。改めて本棚を見渡すと、そんな本がけっこうある。文庫本に絞って少しだけ挙げてみると。
荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅』(知恵の森文庫)なんてのがある。自分では絶対にたどらないであろう道行も、本であるとなかなか面白い。夢枕獏『緑の迷宮』(道草文庫)はマヤ文明・ユカタン半島幻想紀行の副題つき。池内紀『温泉旅日記』(徳間文庫)はヨーロッパの温泉も網羅。いぢちひろゆき『全日本顔ハメ紀行』(新潮OH!文庫)は、観光地によくあるアレが88件。カベルナリア吉田『沖縄の島へ全部行ってみたサー』(朝日文庫)も楽しい。高橋秀樹『樹をめぐる旅』(宝島SUGOI文庫)は文字通り樹にまつわる紀行文。野田知佑『川からの眺め』(新潮文庫)は亡きカヌーイストのエッセイ、いつもと違うところからものを見る。原武史『「鉄学」概論』(新潮文庫)は副題が車窓から眺める近現代史。テッチャンはこういうのを読んでいるのか。宮脇俊三『増補版 時刻表昭和史』(角川文庫)とか。若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(文春文庫)は、意外と言っては失礼だがなかなか面白かった。群ようこ『アジアふむふむ紀行』(新潮文庫)や益田ミリ『ちょっとそこまで旅してみよう』(幻冬舎文庫)のような、ゆるく日常の感覚も忘れたくない。一方、上原義広『日本の路地を旅する』(文春文庫)は自らの出身地といわゆる被差別部落をめぐる考察。これもまた旅なのだ。河野典夫・山下洋輔『インド即興旅行』(徳間文庫)は、山下洋輔のピアノ弾きシリーズと合わせて読むとさらに楽しい。川人忠幸『ブッダ・ロード』(角川文庫)、佐藤秀明『北極-イヌイット』(角川文庫)、篠山紀信『シルクロード(全3巻)』(集英社文庫)は当代随一の写真家たちが切り取ったフォトエッセイ。もちろん藤原新也『印度放浪』(朝日文庫)は欠かせない。大竹昭子・内藤忠行『バリ島不思議の王国を行く』(新潮文庫)、ああもう一度行きたい。大御所の一冊なら井上ひさし『ボローニャ紀行』(文春文庫)、河合隼雄『ケルトを巡る旅』(講談社+α文庫)、深田久弥『日本百名山』(新潮文庫)などがある。
ここに単行本や新書が加わると、本棚で一大勢力を占めているのではないかとも思う。ちなみに我が家の最多冊数として君臨しているシーナ(椎名誠)は含まれていない。