【連載小説:ホワイトハニーの未来へ】「第3章 予感って、」(2-1)
(2-1)
月末のとある金曜日だった。
大樹は、任されていた案件の報告書の作成に追われていた。取引先からの案件を外部に委託しているので、月末になると外部から毎週末に送られた報告書を取引先用に組み直す必要がある。
いつもは、納期に間に合うように毎週末に少しずつ組み上げているのに、今月に限って、他の会議が重なったり、同じチームの後輩や契約社員が風邪で休んだりで、作業時間を確保出来なかった。
夜、二十一時を過ぎると、フロアに残っている人間の数は自然と減っていく。明日は土日で休みなのもあって、普段より少しばかり残業する人間は多いが、それでも二十一時までが限界だ。それ以上を過ぎると、殆どの人間はいなくなる。
明日が休みだから頑張ろうと思っている社員の活力が丁度空になるのが、それぐらいの時間なのだと、大樹は分析していた。
隣の席にいた一年後輩の和田は、自分の案件がひと段落ついたらしく、手早くパソコンをシャットダウンしていた。
「ふぅ、これで帰れる。島津さんは、まだやってく感じですか?」
「ああ。まだ報告書のマクロが終わってないから」
エクセルでまとめたマクロが報告書を作成する作業が、まだ終わらない事を話す。すると和田は「あぁー」と何かを思い出したかのように口を開く。
「今週って契約の武田さんが何日か風邪でダウンしてましたね。その分の仕事をやってる感じですか?」
「そうそう。いつも任せてばかりだから。こういう時にやっておかないと」
和田はデスク下のゴミ箱をフロアのゴミ箱にまとめて捨てると、ラックに掛けていた背広に腕を通す。
「どうして休みって分かった時点で誰か頼まなかったんですか? 午前ミーティングでも何も言ってませんでしたよね?」
「ミーティングで助けを求めるのは簡単だけどさ。マクロのやり方を説明しないといけないし、それを俺が確認するから結局、二重チェック。だったら最初から俺がやった方が早い」
自分でやっている理由を簡潔に説明する。
「だけど、たたき台でも作ってもらった方が助かりません? チーム内で頼むのが嫌なら、他のチームの契約さんか派遣さんに頼めばいいじゃないですか?」
「そんな事したら、そのチームの社員に怒られるわ」
和田の提案に動かしていた手を止めて、そう話す。今から組み立てたマクロから報告書作成を逆算したら、二十二時には会社を出れるのだ。それが彼と話す事で遅れが出てしまうのが少しイライラしまう。そんな大樹の頭の中など、知る由もない和田は「だって、」と会話を続ける。
「そんなのこっそりお願いすれば、向こうは断りませんよ。契約さんや派遣さんはやってくれますって」
「それは……」
大樹の口からため息混じりの声が出た。和田の言い方だと、おそらく過去にやった事があるのだろう。正社員という立場を悪用して頼んだに違いない。そして、おそらく本人はそれを上手くやっていると思っている。立場を利用した強引な頼み方は、会社では禁止されているのに。
そんな事をしていると、パワハラ・モラハラに繋がるからだ。正社員はちゃんと全員研修を受けて気を付けるようにしていた。当然、大樹も和田も受けていて、それは分かっていると思っていた。
事実、大樹はそんな頼み方を一度もした事がない。チームミーティングで提案しなかった自分も良くないが、和田のやり方だって同じぐらい良くない。
どう言えば分かってもらえるだろうか。大樹がそう考えていると和田は時計を見て「じゃあ、俺そろそろ帰ります。島津さんも程々にした方がいいですよ」
と言って、フロアから出て行った。
顔を上げるとフロアには誰もいなくなった。自分が座っている席以外のエリアは照明が落とされて、ちょっとした非日常がやってくる。いつもこの時間から終電までが異常に早く感じる。始業からお昼までは全然、遅いのに大違いだ。
「はぁー」
和田との話から発生した感情と現状を全てため息と声に変えて、口から吐き出す。今は自分しかいないので、意識的に声を出しても構わない。
とにかくまずは目の前にある仕事に集中する事。これさえ終わってしまえば、帰れるのだ。和田のせいで余計な時間を使ってしまった。
大樹は帰った和田のパソコンのスイッチを入れて立ち上げた。ログイン画面に入ると、自分のIDカードを使って立ち上げる。正社員の権限なら空いているパソコンを複数台立ち上げる事は、可能だ。ただその分、余計な負荷がかかるので、推奨はされていない。しかし、契約・派遣社員に無理矢理頼むよりはいい。それに和田だって、そのおかげで早く帰れているのだ。それぐらいは許されるだろう。
大樹は和田のパソコンから共有サーバに入り、自分がやる予定のエクセルファイルを開き、マクロを走らせた。和田のパソコンがカリカリと音を立てて、処理を開始する。
これで良し。大樹はマクロを走らせている間、飲み物を買おうと立ち上がった。自動販売機に行き、温かいレモンティーを購入する。この時間はコーヒーを飲むより、紅茶を飲む方が何となく仕事が捗る気がしたので、彼は残業時間にしか、レモンティーを飲まないようにしていた。
百三十円の硬貨を入れて、落ちてきたレモンティーのペットボトルを手に取る。その場で一口だけ開けて飲み。レモンティーの味と風味と漂わせたところで、大樹は自分の席に戻る。
席に戻るとデスクに置きっぱなしになっていたiPhoneが着信する。相手は、美咲だった。彼女には夕方に今日は遅くなるとLINEをして了解と返事が届いていた。何か用だろうか。
大樹はそのままiPhoneを手に取る。
「はい、もしもし」
「……大樹、どうしよう?」
「美咲?」
いつもの美咲から予想出来ない程の弱々しい声。息遣いと涙が混じるような音が聞こえる。大樹はこの声を聞いて、咄嗟に父が死んだ時、母からの電話を思い出した。
もう随分と昔の事なのに今でも正確に思い出せて、ゾッとする。美咲から電話がかかってくると言う事は、彼女本人は無事であるという事。つまり、考えられる可能性は……。
「由香に、何かあったのか」
「っ……」
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