【連載小説:ホワイトハニーの未来へ】「第5章 お願いしていい?」(3)
(3)
あれ以来、あまり立ち寄らないようにしていた本屋街。
それなのに地下鉄から地上に出ると、まるでついこの間のように当時を思い出す。あの日は、大樹の歩く前に父の背中があった。しかし、今はそれがない。
大樹は自分の足で記憶を頼りに道を歩く。靖国通りから一本横に入って、すずらん通りへ。以前に来た時は無かったコーヒーチェーン店が出来ているのは分かったが、それ以外は変わっていないように見えた。
「あった」
ホワイトハニーの前に来た時、大樹は声を漏らす。店構えは以前と何も変わっていない。時が止まったような錯覚を起こしそうになる。
それが緊張を生んで、自然と胸が高鳴った。美咲のところでチャージした勇気を放出するようにして、ゆっくりと店のドアを開けた。
入るとすぐに鼻に入るお香と古い紙の匂い。記憶にある店のままだった。細い通路を通ってカウンターに向かうと、広げていた新聞を下げて薮川が顔を見せた。
「お久しぶりです。薮川さん、えっと、かなり前に父と来ました。ココで灰色の本を頂いた……」
状況を丁寧に説明して薮川の記憶を呼び覚まそうとする。すると彼は頷いた。
「覚えている。あの時はまだガキだった。大きくなったな、大樹」
「名前まで覚えていてくれてたんですね」
「俺は一度、聞いた人の名前は忘れないんだ。一丁前に背広なんかを着て、お前もすっかり大人になったな。っとなると、康平は俺ぐらいのジジイになったか? どうだ? 元気にやってるか?」
「父は病気で十八年程前に亡くなりました」
「そうか、素直で良い奴だったんだがな。ガンか?」
「いえ、いわゆる突然死です。ある日、急に倒れて」
「……苦しんで死ななかったのなら、せめてもの救いだったな」
「はい、ありがとうございます」
これまでに父の死因を説明して、病死では無かった事を良かったと言った人は全て父の大切な友人達だった。彼らと同じ言い方をした事で薮川と父の仲の良さが窺える。大樹がそう考えていると、「それで?」と薮川が口を開いた。
「今日はわざわざそれを伝えに来たのか?」
「違います。実は薮川さんに灰色の本の事で、相談がありまして」
大樹は父が死んでからの自分の状況、娘の安否を知る為にこれまで開かなかった灰色の本を開いてしまった事。そして、その性能に甘えて安易な気持ちで未来を変えてしまい、美咲を病気にしてしまった事。
これまで誰にも言えなかった自分の心の中にある感情を吐き出した。
薮川は目線こそ下げたものの、時折頷いたり相槌を打ったりして、大樹の話を一つずつ丁寧に聞いていた。
「ーー以上です」
大樹が話を終えると薮川は、カウンターに置いていた湯飲みに口を付けてから、顔を上げた。
「今日まで頑張ったな大樹」
薮川に労いの言葉をかけてもらった瞬間、これまで心の金庫に閉じ込めていたものが溢れて、一気に大樹の涙腺にまで到達した。美咲の病気が判明した時も決して涙腺を緩めなかったのに。鼻を啜って涙腺をどうにか堪える。
「教えてください。灰色の本に書かれている未来について」
「康平からどこまで聞いている?」
「灰色の本に書かれているのは、一年間の最適化された未来だって……」
大樹は父の言葉を思い出しながら、答える。すると薮川は「そうだ」と言って話を続けた。
「あの本には、お前の最適化された未来が書かれている。だから基本的にそれに沿って日々を送れば間違いはない。だが、お前の意思でそこから外れてしまうと、再び最適化が行われる為、修正が入る」
「修正……」
大樹の呟きに薮川が頷く。
「そうだ。ただし、修正されるのは持ち主である大樹のみ。いくら他人の名前が本に書かれていたところで、お前の主観でしかない。だから他人に対して修正は行われない。未来がどう変化するか分からない。……変えてはいけないんだ」
薮川の問いに大樹は放心状態で首を左右に振る。自分が身勝手にしてしまった事の罪の重さ。それが彼の両肩に重くのしかかる。その表情が伝わったのか。
薮川は舌打ちをした。
「そうか。康平は真面目過ぎたな。おそらく本人も知らなかったんだろう。知っていたら、教えてるはずだ」
「だと、思います」
「ああ……、そうだとも」
苦悶の表情を浮かべる薮川。その事もあり、大樹の口が少しだけ開いた。意を決して質問を声に出そうとする。
美咲を救う方法は?
この質問をする為に今日、大樹はココに来た。それなのに薮川の話を聞いているだけで、どんどん勇気がすり減ってくのを感じる。
これ以上、聞いてしまったら、質問そのものが出来なくなる。
大樹は痺れる頭で鼻から大きく息を吸う。
「き、聞きたい事があります」
「何だ?」
「妻を、救う方法はありますか?」
口にした瞬間、大樹の勇気はゼロになった。それはつまり、これ以上は薮川と戦えないという事を意味する。ガス欠だ。こんなに早く訪れるとは思わなかった。
そう後悔していると、薮川が言い辛そうに口を開く。
「嘘をついても無駄だからハッキリ言う。灰色の本で救う方法はない」
「そう、ですか」
薮川の返事を最後まで聞かなくても大樹には答えが分かった。もう話す前の彼
の表情が答えになっていたから。
「もう灰色の本で奥さんの病気をどうにかするなんて考えるな」
「はい」
「未来なんてどうなるか誰にも分からないのが普通なんだ。あんな本に縋るよりも奥さんの傍に寄り添ってやれ。それが今、お前が出来る事だ」
「はい」
「ただ、灰色の本に書かれている未来は、これからもちゃんと守るんだ。修正されて最適化された未来は、お前だけなんだ。万が一を考えろ」
「はい」
大樹が短い返事で返す中、薮川が次々と最適なアドバイスを送る。
「最後に灰色の本から解放される方法を伝えておく」
「そんな方法があるんですか?」
全く予想していなかった助言にオーバーロードしていた大樹の脳が低速ではあるが、息を吹き返す。
「灰色の本はな。ページを開く度に未来が書き込まれる。それはつまり、ページを開かなければ未確定なんだ」
「そうか……」
低速だった頭でも理解出来た。確かにその方法なら、灰色の本から解放される。
「お前が一週間ずつしか開いていないって言うのが、不幸中の幸いだ。康平は一年分、全部開いていただろうから。そこの違いだな」
父は一年分を全て見ていた。だからこそ、本から逃れる事が出来なかった。
たとえ、本に逆らったとしても修正された未来では、父しか反映されない。だから大人しく死を選んだ。だけど、おそらく心のどこかでホッとしたのだろう。
大樹はそんな気がした。
「灰色の本からの解放の仕方。教えてくれてありがとうございます。その方法を聞けただけでもこの場所に来た甲斐がありました」
「これぐらいしか言えなくて悪い。捨てる時は、本は燃やせ。そのままゴミに出してしまって、間違って捲れたら大変だ。いいな、必ず燃やすんだ」
「はい、分かりました」
大樹が強く頷くと、薮川は「さて」と言った。
「これ以上、本の話は不要だろう。そろそろ昼時だ」
「あ、本当だ」
腕時計を確認すると、時間は昼に近付いていた。もっとゆっくりな印象だったのに時間の流れの早さを再確認する。
「大樹の時間があるなら、一緒に食べに行くか? 上手い蕎麦屋を知ってる」
「すいません。有難いお話ですが、仕事に行かないと」
正直、こんな精神状態で仕事が出来るとは思えない。大樹にとってはただの言い訳で、一人になりたかった。
「そうか。大変だろうが、仕事頑張れよ」
「また別の機会に行きましょう。楽しみにしてます」
「はいはい」
大樹は薮川に頭を下げて、店を出ようとする。すると、「おい」と彼に呼び止められた。
「はい?」
「一つ聞き忘れてたが、娘はどうするんだ? 二十歳になったらココに連れてくるのか?」
二十歳になったら連れてくる。その言葉がまだ中学生の由香の顔を出す。父がやった役割を今度は自分がする。そんな事、薮川に聞かれるまで想像もしていなかった。
「分かりません。今の時点では何も分かりません」
「ま、そりゃそうだ。時間はまだあるんだ。少しずつでいいから考えておくんだな」
「はい。今日はありがとうございました」
大樹は薮川に礼を言って、店から出た。
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