【連載小説:ホワイトハニーの未来へ】「第5章 お願いしていい?」(7)
(7)
大樹は病院を出て地下鉄に乗り会社に到着する。
フロアのドアを開けて自分の席に座ると、既に先に来て仕事を始めている高木から挨拶をされた。
「おはようございます、島津さん」
「おはよう。今朝の朝礼で何か言ってた?」
「いえ? 特に注意するような事は言っていませんでした。あー、風邪が流行ってるから気を付けるようにって部長が言ってました」
「あの人、いつも話も風邪に気を付けろって言ってるよね」
「確かに。そうかも知れません」
部長が風邪の事を話す時は、特に話す事がない時だ。高木もそれを分かってきたらしく、含み笑いで返していた。
パソコンを起動させて、スケジュールとメールのソフト起動。和田は午前中から会議、他県なので朝から直行で新幹線を使っての移動だった。
戻りは十六時と書かれている。なら丁度良いかも知れない。そう考えた大樹は和田のパソコンの電源を点けた。
「今日中に報告書をマクロで作成する。高木君にはその作業をしてもらう予定だけど、自分のじゃなくて和田のパソコンを使ってくれ」
「えっ? そんな事出来るんですか?」
「ああ。正社員のIDカードならどのパソコンにもログイン出来る。どうせ、本人はいないんだから、パソコンだけ使わせてもらおう。マクロ走らせてる間、他のエクセル触れないの面倒だろ?」
「確かにそうですけど……」
今まで教えた事のない裏技に和田が戸惑いを見せる。
「裏技だから基本的には乱発出来ない。でも今日は一日かけて報告書作る必要があるから。マクロ専用のパソコンが一台あると助かる。始めてくれる?」
「はい」
高木がそう言って和田のパソコンまで行き、立ち上がったログイン画面に自分のIDカードでログインする。そして共有サーバーにアクセスしてマクロを走らせた。
「和田のパソコンがマクロ走ってる間、武田さんの資料作成の進捗をチェック。重い図面から作るのは来週にしよう。納期までに提出数が埋まればいいから。今は数をこなせて」
「了解です」
指示を受けた高木は立ち上がり、契約社員の武田の席に行った。その間に大樹は届いたメールのフラグ付けと抱えている案件の進捗を確認する。
ある程度、作業が終わって時計を確認すると、時間はまだ病院にいた時から1時間半ぐらいしか経過していなかった。まだ今日は、始まったばかり。
だが気力は充分。やはり美咲のキスによってエネルギーがチャージされたのは言うまでもなかった。
仕事は順調に進み、かなりの残業を覚悟していた今日だったが、僅かな残業で済んだ。エネルギーはまだ充分に残っている。
大樹は彗星のように駆け抜けた仕事を終えて帰路に着く。
家に帰り手洗いを済ませてリビングに入ると、台所で由香が竜田揚げを作っていた。今日は珍しく部屋着の上からエプロンをしていた。普段彼女が作っているレベルから二段階程上がっている料理に驚ていると由香は平然とした顔でこちらを見た。
「あっ、おかえり。もうちょっと出来るからご飯待って」
「おいおい。油とか大丈夫か?」
「大丈夫だって。これ電子レンジで作ってるから」
「えっ? そうなの?」
てっきり大量の油で揚げていると思っていた大樹は、予想外の料理法に驚く。すると、由香はニヤリと笑って口元に手を当てた。
「お父さん知らないの? 今は結構電子レンジで作れる料理があるんだよ。私も一人の時に揚げ物は怖いから、何かないかなってネットで検索したらあったの。お母さんにもLINEでレシピ送ったら作ってもいいって言われたから」
「……美咲にLINEを送ったのっていつ?」
大樹の質問に美咲がiPhoneを操作して確認する。
「一時間前かな?」
「そうか」
一時間前は美咲はまだ生きているという事の証明になった。灰色の本には、夜と書かれていただけで具体的に何時何分と記載はされていない。こちらで捉えるしかない。黙っている大樹に由香が首を傾げる。
「何? お母さんに電話するの?」
「いや、大丈夫。お父さん着替えてくる」
「うん。十五分後には出来てると思う」
「りょーかい」
由香にそう言って大樹はリビングから出た。竜田揚げの匂いがなくなり、いつもの廊下の匂いに戻る。そのまま自分の部屋に戻った。部屋着に着替えて、すぐにリビングに戻ろうとする。
しかし、それを止めるように大樹のiPhoneが鳴った。
「……っ」
画面に表示されているのは美咲が入院している病院。大樹はゆっくりと指を押して、電話を受け取る。
『はい、島津です』
電話の向こうにいるのは、お世話になっている主治医の伊東先生からだった。
美咲の容態が急変した。万が一の事も考えられるので、今すぐ病院に来てほしいとの事だった。
『分かりました。すぐに娘と向かいます』
事情を聞いて、大樹は淡々と答えて電話を切った。
そして、再び脱いだばかりのスーツにもう一回袖を通した。逃げ切れなかったな。由香の作った竜田揚げを美咲にも見せてやりたかった。そんな想いが大樹の心に充満する。
今日までに涙はもう散々流し尽くしたからか、不思議と出ない。部屋を出る前に小さく深呼吸をする。
リビングに戻ると、テーブルにお皿を並べていた由香がいた。どうして着替えていないのかと言った表情で大樹を見ていた。
「お母さんの容態が急変したって病院から連絡があった。今から病院に向かうから、すぐに支度をしなさい」
大樹は由香にそう告げた。彼の話を聞いて、みるみる顔が青ざめてくる。
「待ってて。すぐに着替えてくる!」
「ああ。戸締まりして玄関で先に待ってる」
テーブルに置かれた料理を置いて、由香はリビングを飛び出した。誰もいなくなった部屋で料理だけが時間を忘れて放置されている。大樹は用意された竜田揚げを一つ、手で掴んで口に入れて、コップに入っていた水を飲んだ。
そして台所の棚からサランラップを取り出してで二人の皿にラップを掛けた。
こんな事している暇はないだろう! 誰かが頭の中で叫んでいる気がしたが、大樹には届かない。ラップを掛け終えると、適当にそこらへんに置いて、戸締り電気を消してから、リビングのドアを閉めた。
リビングを出たのに廊下の匂いに戻らない。
どうしてだと不思議に思っていると、先程食べた竜田揚げが原因と気付く。
大樹は部屋から財布とiPhoneを持って、適当なカバンに入れて、革靴を履いた。
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