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「点」で分かることは少ない

「DNA」を調べれば、個人についてかなりのことが分かるのかもしれない。

しかし、そんな高度な技術をもたない一般市井には、それだけでは分からないことも多い。

たとえば、芸能人Aと芸能人Bが結婚したという情報が入ってきたとしよう。

場合によっては、その情報はすごく動揺するものだろう。

しかし、その結婚が3年後、7年後どうなってるのかまでは分からない。


noteで「累計25万PV達成しました」という記事を見かければ、やっぱり動揺する人もいるかもしれない。

しかし、かなりなPVを一時的に稼いでいるのに、たとえば8ヶ月くらいで事実上死にアカ(やめてしまい、アクセスもほとんどなくなる)だったらどうだろう?


「好きなことで儲けてる人の好例」

として、10人の例が挙げてあるニュースがあったとしよう。

その情報を「点」で捉えてしまうと

「こんなに好きなことで儲けてるヤツがいるのか!ならオレも」

と思う人もいるだろう。

しかし、それは「点」にすぎず

「好きなこと」にチャレンジして収入が横ばいだった人、むしろ下がった人がどのくらいいるのかまでは分からない。


巷に提供されている事実に関する情報は、ほとんど「点」でしかない。


「点」でしかない情報は、わたしたちに様々な荒れ狂った感情を引き起こす。

数年前、ある週刊誌に「やらせる女子が多い大学ベスト○○」みたいな企画があり、当の大学に在籍中の女子が連名で訴えた。

ことの是非はともかく

これは、ある情報を「点」で捉えてしまい

「点」がこの世のすべてになってしまったからだと思う。


いや、こんな事実をあげつらってる僕も、そんな大人な人物というわけでもなく、日々「点」でしかない情報に感情をかきまわされ、フリーザに怒り狂ってスーパーサイヤ人に変身した『ドラゴンボール』の孫悟空よろしく怒り狂うことも多い。

「カメラを持って1年でぼくはこうしてプロになりました」

「イラストを始めて1年で○○の収入を得ました」

みたいな記事はnoteでは瞬く間に支持を受ける。

もちろん一時のものではないかと思うけど

しかし、その情報は「点」でしかない。


僕の亡くなった父も40くらいまではイラストで生計を立てていたのだ。

だから、当時noteがあれば父も「僕は3年でプロになりました」みたいな記事を書けたのかもしれない(そんな軽率なお調子者では父はなかったけど)

でも、正直苦労の連続で、冷蔵庫に「味噌」が入ってるだけで、あとはすっからかんのときもあったし、50をすぎてからの10年は運送会社の契約社員として不本意な雑用に近い仕事に甘んじたのだ。

いや、「夢を見るな!」と若者に警鐘を鳴らして、ワナビーたち(僕も似たようなものだけど)を潰そうとしてるわけじゃない。


そういう趣旨じゃなくて

「僕は○年でこうしてプロになりました」みたいな情報は、あまりに「点」でしかなく

その「点」でしかない情報をカンフル剤にするのがいけないと言ってるわけじゃないんだけど

今日的ネットワールドは結局「点」でしかない情報が氾濫し、それに振り回され、それにまつわる感情障害が激増しているのではないか


カメラやイラストで誰それが成功したみたいなはなしは、それを「面」のなかで、あるいは「線」の中で包括的に処理、あるいは眺められないと、
カメラやイラストに手を染めたけど、1円にもならない層(せいぜい小遣いにしかならない層)がどのくらいいるのか結局分からない。

「点」として処理された情報はうまくいけばカンフル剤として誰かを活気づけるけど、マイナスに作用した場合は感情が無限にかき乱されるだけじゃないか。

「点」としてしか何かを捉えられなくなったわたしたちは、むしろそのほうが楽しいというんでなければ、どんどん近視眼になっていき、感情的な次元でそれに振り回されるのかもしれない。

スマホネットの世界の実現によって、僕たちは相互の関連がよく分からない「点」でしかない情報が無数に錯綜している世界を生きてるのかもしれない。

その「点」でしかない情報はときに「喜び」や「楽しみ」をもたらすだろう。
しかし体系的で包括的な「面」の中で把握されないので
僕たちは、まわりに現れる人(たち)や出来事の意味付けに失敗し
意味付けに失敗すると、方向性を失い、それは「強度」としてしか感得されず、「快」をもたらせば「心酔」「執着」、「不快」をもたらせば「怒り」「炎上」として反応するしかなく刹那的になり、方向性を失えば、それは「道」として感得されないので、つまり、そうすると人々はどこへも行けず、カオスの中で狂乱に身を任すしかないのかもしれない。

刹那とはおそらく永遠の「いま」であり

もしかすると、人々は「道」のようなものをいくより
刹那に身を任せ、永遠の「いま」に一喜一憂してるほうがしあわせなのかもと思うこともある。

「今日の星占い」のような「点」でしかない情報もおもしろいし、しあわせを運んでくることもあるけど、
「点」でしかない情報から知り得ることはいままで述べたように少なく、感情の混乱を引きおこすことも多いというはなしだ。



───本文は終わりです───

ここからはオマケになります。

興味のある方だけどうぞ!



さて、最後に、どうして、世の中はこんなに「点」でしかない情報があふれるようになったのか
あるいは「点」としてしか感得できなくなったのかについて自分の意見を述べる。

予想されることかもしれないが

やっぱり「スマホ」だと思う。

スマホは、たとえば7千字の文字情報を読み始めて、5842字辺りを読んでるときに、その文章の2行目に立ち返る(読み直す)のに、紙媒体より滅茶苦茶手間がかかるのはお分かりいただけると思う。

50枚の写真画像のコンテンツがあったとき、43枚目あたりを眺めてるときに退屈してきて、2枚目の画像が一番よかったなと思っても、2枚目の画像に戻るのに相当な手間である。

こうなると、僕たちは過去(2行目や2枚目の画像)は諦めて、いま(5842字目や43枚目の画像)を生きるしかなく
読み終わったら「戻る」ボタンを押してページを閉じるしかない。

この諦めの中で、僕たちの認識受容体のようなものは、体系的な「面」や「線」ではなく「点」としてしか情報を解釈できなくなっていく。

しかも、その「点」と「点」はどういう連関があるのかハッキリしない。

なので、意味を失っていき、そこには意味というより、感覚的、あるいは感情的な「強度」しかない世界を生きるように仕向けられる。

新聞(あるいは雑誌)を思い浮かべていただきたい

時代遅れの情報を並べてるとか

記者クラブの検閲を通った情報しか載ってないとか

45歳をすぎてるネット音痴の人が読んでるだけとか

いろいろ悪く言われているが

しかし、スポーツ記事は18面あたりとか、書籍の広告はこのあたりとか「面」で把握できる。

スマホはタテ15センチからヨコ8センチくらいの狭い空間に、情報がめっちゃくちゃなタイミングでめちゃくちゃに入ってくる。

企業もののであれ個人のものであれ、こっちの都合おかまいなしで入ってくる。

脳みそがおかしくならなければ不思議と感じることもある無秩序にも思える。

こういった空間で、情報を秩序づけようとしたら、相当な能力がいるだろう。

これでは、情報の大半は「点」として孤立するしかなく

「点」が無秩序に錯綜する世界は、ものすごいカオスになっている。

地図ってご存知だろうけど、地図は「点」でしかない現在地を「面」として捉えようとしてできたものだ。

スマホのグーグルマップは昔の紙の地図にはありえなかった情報を盛り込んで立体的になっているが、15センチ×8センチのスマホの限界か、ある空間を「面」的に俯瞰するより「点」的把握に移行(逆行)しているように思える。

スクロール的なせいぜい15センチから8センチサイズの空間ですべての情報を処理する限界が、送る方にも受け手にもあるのかもしれません。

また、送る情報や受ける(られる)情報もそれによって変質しているのかもしれません。


(製作データー)
書き始め:2021年11月18日午後12時21分

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木月まこと
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