初投稿をするのがちょっと重い今年のあたま
今年はアウトプットよりインプットの年ではないか?
巣ごもり族が増えてる今日
ネット経由のアウトプットにどれだけ運が味方するのだろう
いや、もちろん繁盛するアカウントはこういうときでもそれなりにあるのだろう
こういうときに小さなしあわせを運んできてくれるアカウント
有益な情報をくれるアカウント
こんなときだからこそ、部屋の中でクスッと笑わせてくれるアカウント
繁盛するアカウントはそれなりにあるのだろう
だから今年の全体傾向みたく、ひとくくりできないのだろう
自分のはなしをすれば、
ぼんやりしたアイデアはそこそこあるし、
かたちになってないネタもないわけじゃないのだが
(ほぼ)定期的なアウトプットの営為に正直少し疲れてきた
ネタやアイデアがそこそこあるのならどんどんかたちにしていくべきなのかもしれないが、
そこで気になったのは、今年はアウトプットの年なのか?
ということだ
多くの人が巣ごもりする中で
こんなときだからこそ、ネットで誰かに語りかけたい、何かを届けたい人ももちろんいるだろう
実際、多分人々のスマホを見る時間はどちらかといえば増えているのだろう。
しかし自分は多くの人が巣ごもりし始めてる今日、声を大にして届けたいことも少ない気がする
こんなときはインプットをしたい気もする
でも、本なんかを自分ひとりで、ある程度の冊数を読むのは、これは、一般の仕事もやっている人であれば、結構な意志力のいることだ
サボっても、誰も何も言わないからだ
そこで、今だと
あの大学のゼミのような
ひとつの本をみんなで読むみたいなスタイルを希求する自分がほんの少しだけいる
自分ひとりで考えたことを個人的にまとめて、ひとりひっそり投稿ボタンを押すような営為ではなく
みんなで(10人前後)で、輪番で声を出してひとつの本を読んで、討論するような活動があたまに浮かんだりすることもある
もちろん実際はこの御時勢だから、集まることも、声をだすことも御法度みたいな流れではある。
次はそれとは別に、noteなどへの投稿を前提としない、まったく個人的に楽器の演奏をしたり絵を描いてみたりのような、言語的ではない、もっと感覚的なことをやりたい気もする
「いいね」数みたいな序列と離れた空間でそれをやりたい気もする
外へ向けて、積極的に何かを打ち出すより
たとえばTiktokみたいに個人パフォーマンスを全世界に向けて広めようとしたりするより
もっとなんかビミョーに内向きな活動をまったく個人的に欲してる気もする
今年はアウトプットの年なのか?
という漠然とした疑問がどこかにあるためか
アウトプットを主目的としてるnoteの今年を考えると、それがいままでとおりだとすると、何故かそんなに晴れ晴れとした気持ちにもならない
今年も、余程のことがない限り、ひと月3〜5本のペースで投稿を続けていくのかもしれないが
「自分はここにいるんですよ、みんな見て!」と烈しくアピールするより、もっと内向きな活動を望んでいる自分もどこかにいる
自分の考えや主張を声を大にしてアピールして、ブレイクを勝ち取ろうとするより
大学生かなんかの頃に帰って
あのまだ、下から仰ぎ見る聖典が沢山存在したあの日に戻って、誰かと、みんなと同じ書物を読んで、それについて喫茶店みたいな小さなところで語ったりしてみたい欲求がどこかにあったりする
モラトリアムな時代に帰りたいのか?
いや、こんなに多くの人が、大学生から社会人まで自宅待機みたくなってる状況下で、個人の意見を張り切って主張したところで、空を切ってしまうんじゃないかという予感もそういった願望を後押ししているかもしれない
脱モラトリアムとは、ある程度、自分の能力を十全に駆使してまわりと関わることを意味してるだろう
それがちゃんとした大人ということだろう
でももし社会が茶番劇の様相を呈していれば、モラトリアムを指向する願望にも一理…いや弁護の余地はあるだろう
こういったことはもちろん願望にとどまってしまうのかもしれない
実際、実年齢がアラフィフの自分は親もかなりの年齢で家族も問題を抱えていたりする
ここのとろは、親がまだピンピンしていて自分ひとりのことを中心に考えていてもよい20代の人とかとはかなり違う点だろう
仕事は派遣バイトなんかをやっている体たらくで、そんなにムリも効かない
創作なんかをやる人は
たとえば洋楽ロックの
ビートルズやローリングストーンズみたいな人たちは、これは生涯モラトリアムで、それを貫いて(た)いるんじゃないか
しかし先述したようなモラトリアムに憧れながら、実際は淡々と日常の実務を積み重ねていくのだろう
コロナの前は、18年と19年にnoteの公式イベントで2度東京へも出かけている
最初の年(僕の場合は2018年)は、ダッシュボードの数字が多少のウツを引き起こしたものの、それなりにnoteで盛り上がれた自分は、昨年の流れを受けてる今日、今年noteで派手なことが起こる気はそんなにしない。
端的にいうと、「いいね」数みたいな序列(序列なのか?)の世界が少しアホらしくなってる自分がいる。
いや、投稿をする度に「いいね」が3桁を割らない人は、それなりに努力してたり才能かまたは人気運みたいなものがある人だったりする。
創作に打ち込んで、投稿をしてる人の多くは、創作そのものに没頭してしまうタイプと、収益性を強く気にするタイプに分かれて、後者だと「フォロワー数を増やすには」みたいなベクトルが多かったりする。
もちろん両方を気にしている人も多いだろう。
しかし、純粋に創作没頭型であろうと、収益と報酬重視型であろうと、「いいね」数みたいのに気持ちの照準が合ってしまうのは何かが歪んでしまうような気がすることもある。
たとえば創作没頭型が「いいね」数に捉われてしまうと、自分的には「これが旬」なんだけど、投稿すれば70%は「いいね」数が落ちるだろう作品は下書きフォルダーから出せないだろう。
一方、収益と報酬重視型が「いいね」数に捉われてしまうと、たとえば「いいね」を沢山もらうためには、まず人々に信頼されることが先だということになれば、「面白いもの」「有益なもの」を追求するより、実績と信頼の構築といったことをより重視するだろう。
もちろん、危ない橋は渡らないタイプが無理して冒険すべきじゃない場合もあるし、実績や信頼を地道に積み上げてくほうが性にあってる表現者もいるだろう。
しかし、こういった歪みも、それなりに金銭収入に直結して、生活の資になってる場合は別だ。
つまり、最近考えてるのは、「いいね」数というのは表現者の自立性を奪う元凶でしかないのではないかと
それで一杯の缶コーヒーすら買えない数値のために、自立性を売り渡す価値はあるのか?
もちろん「いいね」数みたいのが右肩上がりの段階にある人は、それなりにその数値に酔いしれるのもいいかもしれない(その酔いはそんなに長く続かないだろうから)
月額マガジンなどを主催して、ある一定の読者がついて、そこそこの収入になってる場合も、自分の中で「これが旬」とかに関係なく、ある期待に応える必要が多いかもしれない。
今年も「いいね」数みたいな何だかよく分からない世界に向けて、1年50本前後の投稿をするのだろうか、と考えたとき、自分は今年アウトプット主体の生活にそんなに新年明けて「やるぞう!」みたいな気持ちになれなかった。
自分の中に存在する未来計測装置は、残酷な予想をはじき出す。
「残念ですが、今年も缶コーヒー一杯それで買えないでしょう」
「僕は別にお金が究極の目的でやってるんじゃない」
今年の秋から冬にかけて上野で展覧会が予定されてる画家のゴッホが思い出された。
2010年には初めて六本木に観に行った。
その画にももちろん驚嘆したが、これらの創作がほとんど収入にならない場所で営まれたことも驚嘆を引き起こした。
こんなご時世だから中止にならないともいえないし、必ず観に行くとはまだ言えないけど、
アカウントの世界は、「いいね」数という突風の吹き荒れる狂乱の世界にたまに思える。
どういう根拠があるのかよく分からないその「いいね」数という狂乱の世界で踊り狂うのに少し疲れて、200年以上前に生存していたような哲学者や文学者の難解な伽藍に、大学生のように集まって、それを紐解きたいなんてチラッと考えた。
それはひょっとすると、青春をやりなおしたい願望でしかないのかもしれない。
大人の未来計測機は冷静にやはり「今年も缶コーヒー一本買う金をすら手にできないでしょう」とデジタルに告げる。
noteを始めて3回目の新年を迎える今年、「いいね」でできてる世界に疑問を持ち始めて、アウトプット生活にそんなにワクワクしていたりはしない自分がいる。
こんなことを書けば、もちろん「いいね」から見放されるのは必至。
だけど、それはきっとやる気を失ってるからというわけでは必ずしもなく、むしろ、そうした疑問が出てくるのは、それなりに前向きに取り組んでるからだとも思える。
「いいね」を見つめて、それに振り回されて、それでヨシなのか。
さて、今年はどうなるのだろう。
これを読んでるあなたは、何か計画や野望が、または願いがありますか?
アウトプットにそんなに気持ちのピントが合ってない、新年の自分でした。
(あとがき)
新年が明ければ、もちろんお雑煮やおしるこを食べて明るい抱負を語りたいですよね。
でも、これは、noteを始めて3回目の新年を迎える僕のまったく個人的なはなしですけど、
新年迎えてそこに広がっていたのは、決して深刻な絶望ではなかったとしても、あるバブルが終った感みたいな感じは否めなかったんです。
個人的なはなしですけど、プライベートであるバブルがはじけ(御想像にこまかせします)noteでも秋に長文で2投稿連続ゼロスキを記録して、誰が悪いとかでなしに、秋に起こった炎上騒ぎで運営部の人たちを中心に隠し難い傷が広がっている。その煽りは僕のような弱小アカウントにも無関係ではなく、comに代わってからPVが伸びていた一部の過去記事は、炎上騒ぎでグーグル様に見放されたのか大きくダウンしてしまった。
それらは、今日明日中に死ななければならない深刻な絶望ではなかったとしても、あるバブルが終ってしまった感のようなものは否めなかったんです。
もちろんnoteには様々な状況の人がいるから、いま(こそ)がバブルで、パチンコに例えれば「でまくり」状態で、ウハウハが止まらない人だっていると思います(出まくってる状態の人はそれを楽しむべきだと思います。バブルはいずれ終わるでしょうから)
でも、まったく個人的にあるバブル(バブルというほど、そもそも盛り上がってないんですけど)の終焉を感じて、さて、どうしようかなという曖昧な状態の新年をかなりありのままに書いています。
株式会社みたいに、他者からの投資をベースに活動してるわけじゃないですから、別に景気を粉飾するためにちがうことを書く必要もないわけです。
バブルが終って……
いや、もちろん死ぬつもりなんかはありませんよ。
どっかに向かって歩いていくに決まってますよ。
こりゃあ、神社かお寺にお参り(あんま神社じゃないとダメですみたいなこだわりはないほうです)したほうがいいかな。
「今年も文筆活動じゃ、缶コーヒー1本買えないと思います」という自分の中の現実未来計測班に釘を刺され、アウトプットよりインプットに気持ちがかたむいている男のはなしでした。
でも、どうなるかは分かりません。
なにそれ?
いや、だってホント分かんないっすよね?
(END)
(製作データー)
書き始め2021/1/6/23:17