原価割れ商売にも似ている私たちの営為について(その②)
こんにちは、木月まことです。
前回の投稿では原価割れ商売という概念についてはなしました。
今回も、その続きになります。
前回のおはなしでは、やればやるほど、売れれば売れるほど損益やダメージが膨らむというものがあるということでした。
具体的には、原価84円のものを売り値が50円で売れば(つまり実売価格を原価より低く設定すれば)、1個売れれば34円の損益、2個売れると68円の、70個売れると2380円の損益…といった具合にどんどん損益が拡大していく行為もあるのだということです。
これでは売れれば売れるほど損です。前回はそういうはなしでした。
やればやるほど経常収支でマイナスになる行為もあるのだというはなしでした。
今回もその周辺についてのはなしになります。
では、やればやるほど経常収支的にマイナスになる…そんな行為を人間がするのか、という問題があります。その問いはあまりに合理主義的で損得勘定過多のような気もしますが、ちょっとそれについて考えてみましょう。
では実際に原価割れ(商売)を気にしない選択はどういったものがあるのか?
今回はそういったことを考えてみたいと思います(ここでは、電車やバスでお年寄りに席を譲るとか、誰かが落としたものを拾ってあげるとか、献血に協力するとか、短時間で完結してしまうような選択は除外します。また、なにか荒んだ人生境遇から自暴自棄を繰り返すみたいなケースも除外します)
まず、短期的な原価割れを度外視する、つまり長期的なもっと幅広い視野のもと、短期利益を犠牲にするケースがあります。
これは結構ビジネスの世界では、特に日本のビジネスでは割と常套手段といってもよいくらい多く見かけるものです。
前回はなした、スーパーでインスタントコーヒーを原価割れの価格に設定して、他の商品をその分沢山買ってもらって利益の辻褄を合わすとかもそうですし、あとはたとえば、自動車のトヨタなどが欧米市場に進出する際、市場シェア率を優先するため価格を抑えて販売から上がる利益を犠牲にしたとかです。
コンテンツ市場もある程度、先に無料開放の期間を設けるのはよく見られます。本や漫画も(今はともかく)昔はある程度まで立ち読みを容認してました(いまでも大型書店ではマンガはともかく一般書籍は立ち読みできるでしょう、というよりタダ読みできるカフェを併設してる書店もあります)。そうでないと客を呼び込めない場合もあります。
ただ、こういった短期利益犠牲型はその多くは当然ですが、どこかで損益が利益に逆転することを前提にしています。
つまり、言い方は悪いかもしれませんが、長期的には元が取れることを前提にしています。(ビジネスなんだからそれは当たり前だといえばそれまでなのですが…)
ただ、こういった短期利益犠牲型は、長期的には元が取れる見通しがなにより重要ですし、また短期の損益に目をつむれる基礎体力や資本力がひつような場合がほとんどです。
少し前、タレントが自作の絵本を無料公開して、あとで売れたことがありました。でも、このやり方は無名の絵本作家に簡単に真似できることじゃないかもしれません。もともと知名度のある人の文化・芸術行為というのは、皮肉なことにそれ専業でやってる無名に近い人より集客には圧倒的に優位です。たとえば、結構売れてるミュージシャンが写真の個展を開いたとなれば、写真だけをやってる無名に近いひとより全然多くの客をたやすく集めることができるのは想像しやすいでしょう。
つまり、タレントであり名が既に売れているというだけで、短期の損益に目をつむる基礎体力や資本力はあるということです。
「いや、オレは金欠ギリギリのところで常に闘ってる」とその人はいうかもしれません。でも、同じ金欠でも、無名に近い状態でそれ専業的にやってる人と、タレントとかで、名が知られてる人では同じ金欠でも金の流れてきやすさは、圧倒的に後者が有利でしょう。
つまり短期利益を犠牲にします型商売は、多く、長期的には損益と利益が逆転できる見通しと、短期の利益を犠牲にできる基礎体力や資本力が必須な場合も多いのです。この条件をある程度クリアしてれば、短期的な原価割れを放置しとくのは、むしろ日本人の常套手段のひとつかもしれません。
また、この長期利益を前提に短期の損益に目をつむるというパターンは夫婦の子育てとかにもある程度当てはまるかもしれません(これは個人差が大きく、上手くいくパターンでは、赤ちゃんの時点でかわいくてかわいくて、十分見返りがある場合もあれば、子供ができてしまったのは重荷以外の何物でもなく、親が赤子や幼児を殺してしまう事もあり、そういった事件はいつの時代にもなくなりません)
ではそれとは別に、原価割れ行為を続けるケースにはどういったものがあるでしょう。
わたしが考えるのにはさらに2つあります。
そのどちらも、ややスピリチュアルという風にもいえると思います。
スピリチュアルとはどういう意味においてかというと、あとのほうで見込める現世利益によっての損失の回収を度外視するということです。
まず、そのひとつについてですが、それは意外に思うかもしれませんし、反論もたくさんあるかもしれませんが、それは、第二次世界大戦時の日本の軍隊です。「おいおい、あんな野蛮な連中をスピリチュアルなどと!それは理論歪曲の危険思想だ!」という人もいるかもしれません。でも誤解を恐れず現時点での考えをのべれば、当時の日本軍の(いや、日本人の)方向性は、現世の結果が眼中にないふしがあります。現世での結果が眼中にないという状態は良くも悪しくもスピリチュアルに近いと思います。
「欲しがりません、勝つまでは」といったスローガンや、竹やり訓練で、強大なアメリカ軍に立ち向かおうというのは、これ以上の精神主義は、世界の歴史を概観しても、そんなに沢山ないのではないでしょうか?
もちろん、日本軍のアジア等での虐殺や侵略は、それよりずいぶん前のベルサイユ条約以降の世界の基本文脈をまったく無視したものだったため、または人倫等にひどく反するものだったため、散々な結果に終わりました。
わたしは日本賛美のナショナリストとかではないですが、当時の日本軍と日本人がとった方向性はある意味スピリチュアルだったと思います(国の内外に多大な犠牲者を出した軍の選択をスピリチュアルとは何事だ。そんな意見はアジアで犠牲者が出た国(韓国・中国なと)の猛反発を喰らうぞ、第一ケシカランという人も多いでしょう。しかし、当時の日本人にはやはりスピリチュアルとでもいう傾向を見出すことも可能なのではないでしょうか?竹やり訓練で、核兵器を所有するアメリカに立ち向かっていくというのは、やはりどう考えてもスピリチュアルじゃないでしょうか。もちろん犠牲の当事者やその子孫に対して、軍の選択が正しかったのだと主張するわけではありません)いずれにせよ、こういった現世的結果を捨てているような選択は、原価割れ状態をまったく気にしていない事例のひとつと言えましょう。
もうひとつ原価割れをほうっておくのは宗教や芸術などの分野です。
このふたつのジャンルにも原価割れ度外視は沢山みつかると思います。
これはわかりやすいんじゃないでしょうか?
ある行為の積み重ねが、現世での現世利益での埋め合わせを前提としてないのです。
キリストはどうでしょう?お釈迦様は?
道元禅師や、画家のゴッホは?
フツーにほとんどあり得ないくらいに現世利益度外視の人物が沢山みつかります。
ゴッホなどは現世利益度外視というより、現世利益を得るというような立ち回りができる器用さを欠いていただけなのかもしれませんし、キリストなどもひょっとするとその類いなのかもしれません。
このような人物たちがいまだに人々の憧憬や思慕・尊敬を集めてる理由はどこにあるのでしょう?
ちょっと本題からそれてしまうので、詳しく語るのは別の機会に譲って、ざっとはなすと、この世には、将来に予定される現世利益では相殺されない何かを背負ってる人はいっぱいいるだろうということです。キリストやゴッホといった人達は、そういった人たちの苦痛を今日でも引き受けてるのかもしれません。
具体例はここでは述べないので、これを読んだ人が各々考えてみて欲しい所ですが、いずれにせよ、原価割れをほうっておく、つまり現世利益度外視の姿勢はスピリチュアル(精神主義)につながっていくと思います。
これを読んでるみなさまの中にも、今の職場は苦しいだけだから辞めてしまおうか、とか、苦しい恋愛を御破算にしてしまおうか悩んでいるひともいるのではないかと思われます。そういった人がどのような選択にでるべきかの相談には自分はあたれませんが、ひとつには、そういった悩みを抱えてる人の多くは、多分やればやるほど、売れれば売れるほど損益が拡大していく原価割れ商売に似た状況なのだろうということ。そしてまた、一般ビジネスでは、多く長期利益の達成によって短期の損益を補って有り余る見通しが立っており、またそれを実現する基礎体力や資本があったりする場合が多いということ(そんなもの全くないという状況で結果を手にしたなら、それはある意味ギャンブルに近いでしょう)
また、もし長期利益で埋め合わせる見通しがまったく立たないところで原価割れをほうっておくなら、つまり現世利益度外視なら、それは大戦時の日本(軍)やキリストやゴッホなどの宗教家や芸術家に近いスピリチュアルと呼べそうなあり方に酷似しているだろうということです。
(ここで、ではボランティアはどうなのだ?という疑問もでてきますが、ボランティアの多くはギリギリのところで原価割れ状態は防げているんじゃないでしょうか。ボランティアの主体が原価割れ状態を引き起こしてるんであれば、人の役に立ったり奉仕したりするより、自らが他者の助けを仰がなければならないからです)
最後にもうひとつ原価割れが気にならない行為をつけ加えたいと思います。
それは趣味です。純粋な趣味です。
趣味という行為は、自己満足があるという点で、この1点で大半の損失が補填されます。
具体例は述べませんが、趣味がひとつでもある人なら理解していただけると思います。
つまり、それは自己満足が達成されればそれ以上はオマケなのです。僕もTwitterで趣味に関するアカウントを持ってますが(このアカウントはnoteとリンクさせるつもりは今のところありません)しかし、そのアカウントに投稿して、ファボゼロでも大したダメージないんです。つまり、それこそが趣味だということです。
ただ、趣味に耽る、あるいは興ずるためには、多少条件の味方も必要でしょう。つまり物理的な金銭的な心理的な余裕等が必要な場合が多いでしょう。いずれにせよ、趣味は自己満足が達成されれば他のファクターが原価割れ状態でもさほど気にならないでしょう。
このようないくつかのパターンが原価割れ状態を気にしない人間の営為でしょう。
このいずれにも収まらない原価割れ状態をもしあなたが抱えているんであれば、それは現実的問題としてあなたを悩ませていることでしょう。
あなたは多分、ゴールデンタイムのテレビのバラエティ番組やナイター中継を見る気になれないでしょう。それどころじゃないでしょう(最近の若い人はそもそもテレビを見ないのでしょうか。YoutubeやInstagramを見てるのでしょうか)
一般の経済行為は原価より高く売れて初めて利益です。もちろん原価というのは相場のようなものに左右される相対的なもので、終局的には幻想でしかないのかもしれません。原価というのは、ちょっと乱暴かもしれませんが、コストと言い換えても同じだと思います。つまり原価以下にしかならない状態はコストが回収できてない状態に同じでしょう。そのコストの回収を放っておくのが今まで述べたいくつかのパターンです。また、今まで述べてきたようなコスト回収を度外視する(またはできる)選択を除けば、私たちの苦しみの多くは、この自分の様々な活動に生じるコストの回収と関係しており、それこそが悩みだという場合も多いのではないでしょうか。
以上が、前回の記事で述べた原価割れ商売という概念のその周辺になります。
2回にわたって原価割れ商売についてのべましたが、原価割れ商売などということに思いを馳せたのにはそれなりの経緯があります。そのことについては次の投稿で書く予定です(予定でしかないので変更することもあるかもしれません)商売に限らず人間の行為には原価割れ商売に近い、やればやるほどマイナスになってしまう行為もあるということでした。それが犯罪行為とかであれば、誰でも当たり前と考えるでしょうが、それ以外の行為についても当てはまることがあるというはなしでした。つまり自分(達)の営為の原価割れ状態に苦しんでる人は多いというはなしです。(ひょっとすると日本を始めとする経済先進国は、2人に1人はその営為に対して利益という程のものは上がらない未だかつてないフェィズに突入しているのかもしれません)
長い文御一読ありがとうございました。
(あとがき)数分前にnoteではじめてふたつつぶやき投稿をしてみたのですが、実際にしてみたら、ひどくバツがわるくなり、既に書き上がって明日投稿する予定だったこの記事を繰り上げて今出すことにしました。
この記事はパート2でありパート1に興味がある方へのリンクはこちら