高学歴なメンバーが作り出したバンド、QUEEN【4】
行き場のない連中はアート・スクールに行け
同じ高等教育機関の中でも、大学と比べてアート・スクール出身のロック・ミュージシャンが多いことは序論でも述べた。THE ROLLING STONESのキース・リチャーズはアート・スクールについて
「イギリスにいて、幸運だったらアート・スクールに行けって思うんだ。他に行き場のない連中の行き場だから」
と言っている。アート・スクールは、日本では芸術系の専門学校に相当すると考えられるが、イギリスでは芸術、建築などの科目を教える継続教育機関がアート・スクールと呼ばれ、日本語では美術学校、工芸学校などと訳されることが多い。日本の芸術系の専門学校などはたいてい専門科目の実技試験などがあり、誰でも簡単に行けるものだとは思われない。それではなぜ、イギリスのこの時代、アート・スクールが特に好まれ、「行き場のない道中」はアート・スクールには行けたのだろうか。
大学より進学しやすい!
その理由の一つにアート・スクールが高等教育機関の中でも継続教育機関上級コース (Advanced further education)に属しているということが考えられる。
イギリスの高等教育制度は1960年代以降、「ロビンズ報告書」の導入により、大学=高等教育という図式を捨て、大学以外の高等教育機関が設立され大学とその他の高等教育機関が並立するようになった。その中でも大学に比べてそれ以外の高等教育機関(継続教育機関上級コースや教育カレッジ)は入学資格条件が若干やさしいのである。大学入学の最低条件としては、いくつかの科目のG・C・EのOレベル・パスと、少なくとも2科目以上のAレベル・パスが必要であるとされている。アート・スクールの場合、QUEENのフレディ・マーキュリーを例としてみると、彼は3つのOレベルを取得していたが、志望校のEaling College if Artに入学するにはart1科目でAレベルが必要なため、Isleworth Polytechnic Schoolに通ってAレベルを取得し、志望校に入学することができた。アート・スクール入学にはいくつかのOレベルと、専門科目1つでのAレベルが必要だったと考えられる。確かに大学の入学条件よりは若干、やさしい。
努力はしたくないけれど、労働者階級から抜けだしたい
サイモン・フリスはアート・スクールについて『サウンドの力』の中で、イギリスの教育制度においてアート・スクールは特別の流動性を許しており、自分の行く末も労働者階級にとどまるのを拒んだティーンが、実力主義的な道を歩む能力と欲望を持っていないならば、入学できるところだった(これは アート・スクールが今ほどきちんとした入学資格を必要としなかった1960年代により当てはまった)と述べている。つまり、立身出世の野心はないが今の状況を抜け出したい若者、努力せずに落ちぶれたくない若者が行ける場所であり、アートはそういう青年の幸運の基礎だったのである。入学資格条件を考えれば、確かに大学よりは簡単だが、「誰でも行ける」ほど簡単だとは思われない。けれども、入学後の学金など環境を考えると、 アート・スクールへの進学希望者は多かったと思われる。更に、アート・スクールも含む大学以外の高等教育機関は設備や予算のシステムが大学とは違うため、高等教育機関進学希望者の多くに対応できた。1962年から68年にかけて教育カレッジの学生数増大率は93%、継続教育機関上級コースでは129%の伸び率を示したのに対し、大学はわずか53%であった。継続教育機関上級コース及び教育カレッジでは、資格を持った進学希望者はほぼ全員が入学が可能だったのである。
ポップ・アートとロック・ミュージックが結びつく場所
ミュージシャンたちにアート・スクールが好まれたもう一つの理由としては、60年代から70年代にかけてアート・スクールが持っていた特徴によるものと思われる。60年代、アメリカで生まれたヒッピー文化は、イギリスにも麻薬、ファッション、学生運動といった面で影響を与えた。真っ先にその影響を受けたのは、ロック・ミュージシャンたちであった。中でも“サイケデリック”を視覚化したポップ・アートが与えた影時は大きい。ピーター・ヴィッケによれば、60年代、アメリカのポップ・アートは、特にイギリスのミュージシャンにとってはインスピレーションの元であった。THE WHOのピート・タウンゼントは、「我々は普通のグループの要素として、ポップ・アートを演奏している」とメロディ・メーカー紙に語っている。
例えば、BEATLESの “Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band”アルバムの カバーはピーター・ブレイク、THE ROLLING STONES “Sticky Fingers”はアンディ・ウォーホールといった有名なポップ・アーティストが手がけたものであり、ロック・ミュージシャンとポップ・アーティストとの親密さを知ることができる。そして、そのポップ・アートと最も深く関わることのできる場所がアート・スクールだったのだ。
アート・スクールには美術の教材として、最新のポップ・アートが世界中から(特にアメリカから)集まる。そこで学生たちは進行の最先端のアートを知り、自分たち自身の表現手段をより個性的にするために取り入れていったと思われる。その中で、ポップ・アーティストであった教師による授業を後にステージに生かしたミュージシャンもいる。
また、ピーター・ヴィッケはアート・スクールが美術学校として芸術の目的と「生きていくために稼ぐ」という永遠の矛盾を抱えており、産業界はアート・スクールの卒業生を雇うより、市場戦略として実用主義に走る傾向があった。そのような状況からアート・スクールは資本主義の実益の論理から遠く離れた空間となり、異常な文化的自由を持つ場となり、そこに様々な学生ボヘミアンが集まる結果となったと分析している。そういった空気を持ったアート・スクールは、食べるために、あるいは単に芸術を学ぶだけではなく、自分を何か表現するための手段を身に付けたい、何をしたらよいのかわからないといった若者たちにとって、非常に過ごしやすい空間となっていたのである。
※上記ではわかりにくいですね。補足すると、本来アート・スクールなど継続教育機関上級コース、あるいはポリテクニクなどは職業と直結する教育機関でした。アート・スクールは工業デザインやグラフィックなど、実用的なことを教える学校でしたし、まだ階級が根強く残っていたこの時代では、そういう実用的な高等教育なら進学してもよし(階級の中で大きく変動しないので、成功が期待できるが「やつら」に仲間入りするのではない)という意識がありました。ただ、ポップ・アートは実用的かというとそうでもなく、芸術的な探求・主張の側面が強い。その風潮がこの時代に強くなったため、産業界と離れがちになった(職業に直結しない)と考えられます。
アート・スクールとは、若者文化に対して色々な情報を与える場であり、若者たちは授業から与えられる情報、そこにいる他の若者たちから集められる情報、海外の新しいムーヴメントの情報などを手に入れることができる場所になっていた。そして、そういった学生ボヘミアンたちが集まりやすい空気があり、入学する難易度もそう高くはない。入学すれば奨学金ももらえる……こうして、アート・スクールの経験はロック・ミュージシャンに自分たちが芸術的、観念的な意味でのミュージシャンであるという意識を強く与えることになり、商業の一部でしかなかったロックを芸術としての音楽としてとらえ、自己表現の手段として創造するようになった。そこに、イギリスのロック、若者文化が世界中に影響を与えうるほどの個性を持ったものとして生み出された一因を見ることができるのである。
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