高学歴なメンバーが作り出したバンド、QUEEN【2】
1960年代以降、多くのロック・ミュージシャンがアート・スクールを含む高等教育機関を通過し、またそれらの機関や大学は、当時の若者たちにとって学問だけのための場ではなくなってきていた。義務教育を終えるとすぐに働くか、無職でぶらぶらしているしかなかった若者たちに、新たに生活する“場”と“時間”が与えられたのである。なぜ、これまで高等教育に進む機会を与えられなかったものが、この時代に可能になったのだろうか。そして、それは若者文化の質やあり方をいかに変えたのだろうか。
まず、大学に進学する若者の例としてQUEENのメンバーの学歴を挙げておく。
ブライアン・メイ
ギターのブライアン・メイは小学校を卒業すると、Hampton Grammer Schoolの奨学生試験に合格して入学した。非常に成績が良く、18歳で10科目のOレベルと4科目のAレベルを得て、更に Lodon UniversityのImperial Collegeへの奨学金資格を獲得して卒業した。
1965年、Imperial Collegeに入学して物理学と赤外線天文学を専攻し、同時に音楽活動も始めていた。彼は在学中の研究を学術雑誌に発表したことがきっかけでJodrell Bank天文台から研究職の誘いを受けるなど、非常に優秀な学生であった。結局、音楽活動を続けるためにその名誉ある誘いは断り、大学に残って博士課程に進んで研究を続ける傍ら、QUEENの母体となるバンドの活動を始める。1973年にQUEENがファースト・アルバムを発表するが結果は思わしくなく、ブライアンはパート・タイムの仕事として中等学校で英語教師を始めた。大学で研究も続けており、EMI Electronics社で破砕性爆弾の破壊力を査定するアルバイトもしていた。結局はバンドが成功を掴みはじめた1975年頃には大学も退学したと思われる。
ロジャー・テイラー
ドラムのロジャー・テイラーは全寮制のパブリック・スクール、Truro SchoolからOレベルを7科目、Aレベルを3科目取得して1967年にLondon Hospital Medical Schoolに歯科医になるべく入学した。小学生のころからバンド活動を始めていた彼は大学に行っても音楽を続けていた。しかし、1年でこの大学をやめて音楽活動に専念することに決める。本格的ににQUEENが活動し始めた1971年にもう少し収入が必要だと考え、生物学の学位を取ることにした――というのも、彼は奨学金を受ける資格を持っていたからである。そしてNorth London Polytechnicに入学し、72年に生物学の学位を得て卒業した。
ジョン・ディーコン
ベースのジョン・ディーコンはBeauchamp Grammer Schoolから8科目のOレベルと3科目のAレベルを得て、1969年にLondon UniversityのChelsea Collegeに入学、電子工学を専攻した。翌年、QUEENに加入。1972年に同校を首席で卒業するが、QUEENが成功するかどうか疑わしく思っていたジョンは修士課程に進み、研究を続けた。最終的にQUEENは成功し、バンドが忙しくなった彼は修士課程をあきらめた。
フレディ・マーキュリー
ヴォーカルのフレディー・マーキュリー(本名はファルーク・バルサラ)はアフリカのザンジバル王国(現在はタンザニア連合共和国に属する)出身のインド系イギリス人である。インドのボンベイ(現在のムンバイ)でイギリスの全寮制パブリック・スクールであるSt.Peter’s English Boarding Schoolに入学した。イギリス式の中等教育を受け、学校でもフレディとイギリス式に呼ばれるようになっていた。16歳で3つのOレベルを得て学校を離れ、家族のいる故郷ザンジバルに戻ったが、1963年にザンジバルはイギリスから独立し、翌年には革命が起こるなど政情が変わったため一家でイギリス本国に移住する。美術が得意だったファルークはアート・スクールへの進学を志し、Ealing College of Artを志望校とするが、入学にはArtの1科目でAレベルが必要なため、Isleworth Polytechnic(Aレベル取得のための予備校のようなものと思われる)に通ってAレベルを取得、1966年にEaling College of Artのグラフィックデザインコースに入学した。
当時のイギリスの初等・中等教育(公立)
小学校にあたるジュニアスクールは日本より1年早く終わり、イレブンプラスという中等学校に進むための選抜試験を受ける。その結果でグラマー・スクール、テクニカル・スクール、モダン・スクールのいずれに進学するかを振り分けられた。グラマー・スクールは進学校で優秀な生徒が配分され、その次に有能な生徒が進学するのがテクニカル・スクール。ここでは工業・商業・農業に関連した教育に力を入れており、残りの生徒が行くのがモダン・スクールとなり、そこはあまり出来のよくない生徒が集まることになる。モダン・スクールの生徒には大学進学の道はほとんど開かれていなかった。
1955年から66年にかけてのイレブン・プラス後の進路はモダン・スクール55%、グラマー・スクール19%となっており、高等教育進学コースへの進路は厳しい。中等学校では15歳で義務教育を終えて学校を離れることができるが、その後も続けて第5学級、第6学級に進んでさらに高いレベルの教育を受けることができる。第5学級ではGCEのOレベル試験(普通教育修了資格試験の普通レベル)、あるいはCSEを目指す。(現在はGCSEに統一されている)さまざまな科目でOレベルを取得すると、就職やその後の進学に有利になり、高等教育機関に進学するには必須の資格である。さらに第6学級に進むのは高等教育を希望する生徒で、彼らはGCEのAレベル(上級レベル)取得のために2年間勉強する。大学入学の最低条件として複数のOレベルと、少なくとも2科目以上のAレベルが必要だとされていた。1967年に第6学級在籍中にAレベルを2つ以上取得したのは全18歳人口の約1.4%であった。
・Aレベルは日本の高校卒業程度よりもはるかに難しく、専門性も高い。
・パブリック・スクールは、有名ですが私立校です。
◆私が1990年代に私立大学の学部生だった時、イギリスからの帰国子女枠で入学する生徒のほとんどが日本語のAレベルを持っていないと担当教授が嘆いていました。“日本人だから”程度で取れる難易度ではないそうです。
◆ハリー・ポッターシリーズにもO.W.L試験とN.E.W.T試験が出てきますね。これはそっくりOレベルとAレベルのことで、イギリスの中等教育制度なのですね~。
◆OレベルもAレベルも、学校を離れてからも取得することができます。転職する時や大学の専攻を変わろうとか、いったん就職したけれども大学に行くために取得する人もいます。2年ほど前、イギリスの友人の娘さんはどうしても大学進学に必要なAレベルが取れず、フリーターをしつつ挑戦を続けて、2年越しでAレベルを取って大学に入学しました。
いずれも1960年代後半に大学に進学した彼らは、高等教育を選んだ若者文化のどのような特徴を表しているのだろうか。そして、その舞台となったこの時代の大学はどのような場だったのだろうか。
大学生倍増計画と、その誤算
イギリスでは1963年に勧告された「ロビンズ報告書」に基づいて、高等教育機関の拡大がはかられた。それは、高等教育進学希望者の増大に伴い、高等教育機関がその人数を収容できるように、1年間で学生数を2倍に増やすという計画であった。計画に沿って新大学7校が発足し、また継続教育機関上級コースにあった高等工科カレッジ8校が大学に昇格され、1968年の時点で大学は44校となった。結果的には1962~63年度以降、高等教育機関の学生数は、ロビンズ報告の目標以上に急増した。この背景には大学進学希望者の著しい増加傾向があったのである。その理由としては、戦後、中等教育が充実したこと、ベビーブームに産まれた子供たちが大学年齢に達する時期であることなどが率げられるが、これを予測してはじまった高等教育拡大の計画であったのに、それを上まわってしまったのである。このことは、高等教育機関進学希望者が、単に人口的な割合で増えただけではなく、これまで進学を希望しなかった者も高等教育を希望するようになったということを示している。
その理由としては、イギリス社会全体の側面として高等教育への関心が高まっていたということが挙げられる。イギリス国民の生活水準が高くなって中流階層が増え、中流階層の家庭の資力によって子どもを大学に進ませることが可能になり、階層を表す一つのシンボルである大学教育に関心が集まっていたのである。大学進学は将来のよき就職と昇進に結びつき、少なくとも自己の階層あるいはそれより高い階層進出へのステップであると捉えられるからだ。もう一つ、義務教育を修了して社会に出るか、高等教育に進むかという選択を迫られる若者たちにとって、大学という場が魅力的な原因がある。それは充実した奨学金制度であり、これが若者の生活を大きく変えた。そのイギリスの奨学金制度とはどのようなものだろうか。
単純に比較できないことは承知ですが、現在の日本には大学が768校あります。国立大学は82校(旺文社教育情報センター「今月の視点 139」 2018年7月より)。この論文で取り上げているイギリスの「大学」は、ほぼ国立なので、60年代に増やして増やして44校だったのです。
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