鶴舞公園にもう一度行こう/沢野ひとし
私が生まれたのは名古屋の鶴舞(つるま)公園の近くである。両親は洋裁学校の経営と本の出版で大成功を収め、戦後、東京に進出してきた。
鶴舞公園の中心地にルネサンス風の奏楽堂があり、かつては演奏会も開催された。現在見られる形は屋根がドームのように丸く、これは明治43年(1910年)の創建当時のデザインを、平成9年(1997年)に復元したものである。ところが、母が写った色あせた写真を見ると、屋根が平らであり、昭和9年(1934年)の室戸台風で崩壊した後に建てられた、二代目の奏楽堂であることがわかる。
写真には、母を中心に女子生徒がずらりと並び、30歳頃と推測される母は、しゃれた服を着て、見るからに才女然とした笑みを浮かべていた。偶然だが、奏楽堂が造られた年に両親は生まれている。もし元気にしていたら、110歳である。母と父は福岡の高等学校でのテニス仲間だった。母は大きな炭鉱の裕福な家の娘として育った。
私が名古屋にいたのは4歳頃までなので、鶴舞公園の奏楽堂の思い出はほとんどない。かろうじて覚えているのは、母の洋裁教室の、生徒が帰った後のガランとした部屋ぐらいなものである。
引越した東京の東中野の家は、広い応接間に冬は石炭ストーブがあり、二階が服の仕立て作業場になっていた。服の裁断を学ぶ住み込みの人が、たえず数名いて、母は忙しそうに働いていた。近所の割烹着の婦人たちのように井戸端会議をする暇はまったくなかった。
早朝から深夜まで洋服のデザインをしており、実物大の型紙が作業場にはずらりと並んでいた。
どんなに忙しくても店屋物を取ることは一度もなかった。それほど手のこんだ料理は食卓に並ばなかったが、いつも温かな湯気が上がり、てきぱきと料理をしていた。
五人の子どもたちの家事分担もあり、私はお風呂の係であった。かまどに火を燃やし、湯加減はたえず適温を保っていたので、母に良く褒められた。
家族で年に一、二回出かける銀座への買い物の日は興奮した。森永チョコレートの大きな地球儀を見ると、よだれが自然に出てきた。
しかし新しい事業は年々厳しくなり、私が小学校六年生の時に家を売却した。隣の町に転居したが、小さな間取りの借家で、父は毎日憔悴した顔をして、新聞を読み昼寝ばかりしていた。母は背筋を伸ばし赤い服を着て、自分を励ますかのごとく次の仕事に動きだしていた。
母がちょうど50歳の時に癌が見つかり、あれほど元気に働いていたのに、床に就くことが多くなり、大塚の病院で54歳の時に亡くなった。
名古屋の鶴舞公園の近くで二十年ほど前に個展があり、午前中は時間があったので、公園までタクシーで行ってみた。
奏楽堂の前に立った時、ちょうど自分が、亡くなった母と同じ歳だとふと気が付いた。周りにはアジサイが咲いており、子どもたちが両手を上げ走りまわっていた。
イラストレーター・沢野ひとしさんが、これまでの人生を振り返り、今、もう一度訪れたい町に思いを馳せるイラスト&エッセイです。再訪したり、妄想したり、食べたり、書いたり、恋したりしながら、ほぼ隔週水曜日に更新していきます。
文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん/作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)、『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)、絵本「一郎君の写真 日章旗の持ち主をさがして」(木原育子/文・福音館書店)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。最新刊は『ジジイの片づけ』(集英社)。電子書籍『食べたり、書いたり、恋したり。』(世界文化社)も絶賛発売中。
Twitter:@sawanohitoshi