読めない/中澤日菜子
一昨年の夏くらいからちょこちょこと辛いできごとがあった。
「ちょっとついてないな」という程度のものから、立ち直るのに相当の日数を要するものまでレベルはさまざまだったが、とにかくあまりラッキーな星回りではなかった気がしてしかたがない。
「こういうときは厄落としに行くべきだ」
そう思い、んまんま担当編集者のF嬢を「一緒に厄落としに行かない?」と誘ってみた。
「いいですよ、ぜひご一緒しましょう」
快諾してくれるF嬢。うう、ありがとう、へっぽこ作家のわがままにつきあってくれて。さらにF嬢はわたしの吉方まで調べてくれた。それによると北が今年のわたしの吉方位にあたるという。
こうして早春の一日、自宅から北にあたる川越の氷川神社にお詣りするべく、私とF嬢は西武新宿駅から特急レッドアロー小江戸号に乗り込んだのであった。電車内は新型肺炎の影響か、乗客がとても少ない。一車両に数名、ぱらぱらと離れて座っている程度だ。観光業の厳しい現状をまざまざと実感する。
出発時刻は十二時過ぎ。川越到着は十三時前の予定。じつはこの時間の小江戸号を選んだのにはわけがあった。それは――
「川越で美味しい鰻を食べるのだ!」
川越の鰻はつとに有名らしく、市内には何軒も有名店があるという。荒川やその支流に囲まれているせいであろうか。
鰻うなぎ鰻。わたしとF嬢は本来の目的である「厄払い」を二の次に「とにかく着いたらまず鰻を食べよう」と誓い合ったのである。
小江戸号が時間通り川越に到着するやいなや、わたしたちは観光案内所を訪れた。ここで市内マップと鰻屋さんマップを手に入れる。
「日菜子さん、どこにしましょう?」
「やはりここは超名店の『小川菊(おがきく)』にチャレンジだ!」
「よっしゃー!」
小川菊は午前中に整理券を配り、その時間にならないと入店できないほどの超人気店だという。平日とはいえランチタイム。行列を覚悟しながらお店に向かう。ところが。
ない。行列が見当たらない。それどころか店内には空席がちらほら。
そんなことがあるのだろうか。これも新型肺炎の影響か。
お店には申し訳ないけれど、並ばずに美味しい鰻にありつけるとは、なんてラッキーなのだろうか(すでにこの時点でじぶんがアンラッキー中だということを失念している)。
風情溢れる店内で待つことしばし、来たきた来ましたよ、念願の鰻重が。
てりてりと脂が光る、ふっくらした厚い身。たれの、芳ばしく甘辛い匂いが鼻腔をくすぐる。お店で鰻重を食べるなんていったい何年ぶりだろうか。肝吸いをひと口いただいてから、鰻に箸を入れる。柔らかい身がほろりと割れる。たれの沁みたごはんとともに掻き込むと――ん、まーーいっ! ふたり、会話するのも忘れ、夢中でわしょわしょ食べてゆく。あっという間にごちそうさま。
外に出る。早春の風はまだまだ冷たいが、鰻で身もこころも温まったわれわれにはなんのそのである。
「地図によるといまここですから、氷川神社はあっちですね」
F嬢のことばが頼もしい。わたしは無言で頷く。なぜならわたしは超の三つくらいつく筋金入りの方向音痴だからである。取材や出張時には同行者に地図を読んでもらい、現地へのナビを頼むのが常だ。なので今日もすべてF嬢にお任せのつもりでやってきた。
ところが、である。
行けどもいけども神社が見えてこない。どころか小江戸の中心街から外れ、あたりには閑静な住宅が広がる地帯に突入してしまっている。迷子の予感大(方向音痴なので迷子勘?は働くのである)。
こういうときはひとに聞くべし。F嬢に、たまたま通りかかった男の子連れの女性に道を聞いてもらう。その間わたしは男の子のお相手。
待つことしばし、F嬢がこちらに向かって駆けて来た。
「日菜子さん、わかりました、神社の場所」
「どこらへん?」
「それがですね」言いよどむF嬢。「じつはわたし、地図を九十度間違えて読んでいたようです。『上はこっち』と指摘されてしまいました……」
……。どうやら小川菊を出た時点で、F嬢は地図を読み誤ってしまったらしい。鰻屋さんには迷わず行けたのに。お詣りよりも食い意地を優先した罰があたったのだろうか。
ともあれ無事に氷川神社に到着し、神主さんによるお祓いを受けることができた。きっとこれからはいいことがたくさん起こるはず、と春の薄い青空を見上げるわたしであった。
【今日のんまんま】
鰻の脂が沁み込んだご飯がたまらない。肝吸いも、おつけものもまさにちょうどいい塩梅。んまっ。
(小川菊)
この連載では、母、妻、元編集者、劇作家の顔を持つ小説家であり、方向音痴の中澤日菜子さんが、「んまんま」な日常を綴ります。ちなみに”担当編集者F”もまた、筋金入りの方向音痴であります。連載は、ほぼ隔週水曜日にお届けしています。
※今回のエッセイは、2020年3月上旬の取材をもとに執筆されたものです。
文・イラスト・写真:中澤日菜子(なかざわ ひなこ)/1969年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。日本劇作家協会会員。1988年に不等辺さんかく劇団を旗揚げ。劇作家として活動する。2013年に『お父さんと伊藤さん』で「第八回小説現代長編新人賞」を受賞。小説家としても活動を始める。おもな著書に『お父さんと伊藤さん』『おまめごとの島』『星球』(講談社)、『PTAグランパ!』(角川書店)、『ニュータウンクロニクル』(光文社)、『Team383』(新潮社)、『アイランド・ホッパー 2泊3日旅ごはん島じかん』(集英社文庫)、『お願いおむらいす』(小学館)がある。小学館P+D MAGAZINEにてお仕事小説『ブラックどんまい! わたし仕事に本気です』連載中。
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