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【連載小説】「北風のリュート」第50話

前話

第50話:北風のリュート(1)
「立原、おい、立原、しっかりしろ」
 迅は薄く目を開ける。
 シートが切り離され、メインパラシュートが開いたところまでは意識があった。それからをよく覚えていない。海野がなぜいる?
「パラシュートはそこの木に引っかかっていた。おまえはベイルアウトの強烈なGで意識を失ったんだろ。ぶら下がるおまえの重さに若木が耐えられなかった。俺が駆けつけたときには、枝ごと折れて落下していた」
 右目がかすんで焦点がうまく合わない。こすろうと伸ばした手を海野に掴まれた。
「触るな」海野が鋭く叫んで、はっとする。「怒鳴ってすまん。隠してもわかることだから、言う。右目を負傷している。枝ごと折れて落下するときに傷ついたんだろう。応急で消毒し出血を押さえている。だから、触るな。救護を要請している」
 ああ、それでか、と迅はぼんやりと思った。それで、よく見えないんだ。回転しながら墜落していくF15イーグルの姿が脳裡に浮かぶ。
「ここは、どこですか」
「市立図書館前の植え込みだ。ベイルアウトの後、おまえは南西に飛んでここにパラシュート落下した」
「作戦は?」
 海野は無言で首を振る。
 迅は海野に背を支えられたまま空を見上げる。赤い蓋は取れていない。失敗したのか。ミサイルが開けた穴に赤毒風蟲せきどくワームたちが集まりつつあった。そうか。彼らはミサイルで粉砕されたわけではなかったんだ。ただ散り散りになった。爆発で結合部が切り離されただけだ。そういえば、と迅は思い当たる。イーグルで瘡蓋かさぶたを突き抜けるときも、固い物質に激突するような衝撃は感じられなかった。雲を抜けるのと変わらず、なんの手ごたえもなかった。彼らは簡単に離れて、また、簡単にくっつく。わかっていたことなのに、なぜ気づかなかった。
 キキィィーー、バン!
 基地病院の救急車が横付けされた。
「タッチー」
 流斗の声がした。ピントが合わないため表情はよくわからないが、ごめん、と絞り出すように震えていた。
「急ぎ眼科の岩田医師に連絡して」
 医師が看護師に指示する声が聞こえた。
 片目ではイーグルに乗ることは……絶望的だろう。墜落するイーグルの姿がまた脳裡をよぎる。片翼をもがれた愛機。初めてコクピットに座った日の昂揚が胸を締め付ける。たった一年。俺の不注意がおまえから右翼を奪い、墜落させた。右目の失明――それは、イーグルドライバーとしての死だ。右翼と右目。同じ、右か。
 
 
 三十日午前八時。今日は『赤い瘡蓋掃討作戦』の決行日だ。
 レイは慎重にあたりをうかがい、ガレージから自転車を出す。
 午前八時にペトリオットのトレーラーが基地を出発すると、迅から聞いている。皆が作戦へ関心を向けている間に行動しようと考え、レイも八時に裏口から出た。表通りは避け裏道を選んで東に向かい、加賀見山の裾野にある素戔嗚すさのお神社をめざした。龍源神社も加賀見山の麓にあるが、素戔嗚神社も加賀見山の裾野の一画にある。残った候補場所はここだけだ。
 
 昨日、龍源神社に行った。
 龍源神社の奥の院にある洞は、戦時中、宝物を一時避難させた場所だ。高祖母の房江が宮司に頼み込んで風琴と龍秘伝を空襲から守ってもらった洞でもある。最も可能性が高いと睨んでいた。
 三年前に若者たちの煙草の火の不始末でボヤ騒ぎがあった。以来、洞の入り口は板で閉じていたが、邦和叔父様が宮司さんに開けておくよう頼んでくれたと母から聞いた。「龍源神社と素戔嗚神社は、昔は二社で一つの神社だったらしいわよ」詳しいことはわからないけど、邦和叔父様が宮司さんからそう聞いたんですって。
 二社で一つ。どういうことだろうと思った。
 龍源神社の洞は、本殿の背後から奥の院へと細道を登った先にあった。入り口付近の土壁に焦げ跡が黒く残っていた。洞はそれほど深くない。奥まで進む。龍秘伝を置き、口伝を唱えながら風琴を奏でた。「三密鳴動すれば」と唱えたときだ。中央の弦が一瞬微かに鳴った、ように思った。
 それから何度も何度も口伝を口ずさみながら、中央の弦だけを弾き続けた。中指の腹が痛くなると、人差し指や薬指に替えて。どの指の腹も縦に深く朱い跡がついた。しかし、その後はとうとう一度も鳴らず、洞は閉じたままで何の変化も起こらなかった。レイは諦めて誰もいない自宅に戻った。時刻は午後四時を回っていた。洞の外も内も、真っ暗だった。
 
 あれは、そらみみだったのだろうか。自転車を漕ぎながら空を見上げる。
作戦が成功すればあの赤い瘡蓋は剥がされ、鏡原に青空が戻る。龍穴が見つからなくても、それでいいんじゃないだろうか。
 素戔嗚神社は、神主もいないさびれた神社だ。
 加賀見山の登山口脇に苔むした石造りの鳥居があった。社名を示す額もなく、ここで合っているのか、レイは少し不安になる。一礼して鳥居をくぐった。自然石を積んだだけの石段が続いている。龍源神社も三の鳥居まで石段だが、きちんと四角く整形された石段で、毎朝、宮司が掃き清めている。素戔嗚神社の石段には落ちた葉が積もっていた。レイは一段ずつ呼吸を整える。背負った風琴のケースと酸素ボンベが肩にくい込む。
 二の鳥居をくぐると本殿があった。賽銭箱は朽ち、狛犬も風雨に撫でられ輪郭がおぼろになっている。レイは賽銭を入れ柏手を打った。あたりの空気が変わったような錯覚を覚えた。顔をあげる。空の魚がレイの首筋を撫でるように泳ぎ過ぎ、レイを振り返った。レイは魚についていった。
 本殿の裏に道とも呼べないような細道があった。魚がときどき振り返る。案内でもしてくれているのだろうか。
 洞にたどり着いたときだ。天を揺るがすほどの爆音が背後から轟いた。
 レイは驚いて振り返る。また、鋭い閃光が走り、耳をつんざく轟音が響き、西南の空が弾けた。細い棒のようなものが、ひゅーっと直線で上がったと思うとすぐに爆音が地面を震わせ、赤黒い空の一画が払われ白い煙幕が広がっていく。作戦が始まったのだ。流斗と迅の決戦の火蓋が切って落とされた。私も急ごう。
 洞の入り口は狭く低かった。奥から風が吹いている。洞に入ると外界の爆音は消えた。なかは思ったよりも薄明るかった。ぴちょん……ぴちょ。天井から水滴が落ちている箇所がある。そちらに目をやる。空の魚たちが数匹水を飲んでいた。レイは洞のうちを見回す。案内してくれた魚だけでなく、透明な魚たちが驚くほどたくさん泳いでいる。案内の魚が先を行くと、他の魚たちが道をあける。レイはついて行った。
 最奥に小さな祠があった。ひときわ大きな魚が、祠を守護するように横たわっている。
 不意に声が降ってきた。
《龍人の娘よ、待ちくたびれたぞ》
 レイは目を瞠る。やっと、やっと話のできる魚と巡り合えた。
 レイは酸素マスクを外し、ボンベを足もとに置く。息が苦しくない。
「ここが龍穴?」
《然り》
「ここがスサの眠る洞?」
《然り》
「あなたは風徒ね」
《然り》
「琴乃おばあ様の風徒は、風龍は北の最果ての谷にいると言っていた。ここは、北の最果ての谷につながっているの?」
《然り》
「そこに北風の龍がいるの?」
《然り》
 くすっとレイは笑う。「然り」しか言わないのね。
《そのようなことはない。そなたの問いに答えているまでよ》
「あなたは、どうして私と話ができるの。他の魚たちは、どんなに話しかけても答えてくれなかった。琴乃おばあ様の魚は話してくれたけど。違いがあるの?」
《人の言葉を解し、話すは難しい。ゆえに年輪としわを重ねたものにしかできぬ。また、念力によって話すは力を費やす》
「話すぎて力を使い果たしたら、あなたも消えてしまうの。そうだとしたら、もう質問はしない。あなたが消えたらいやだもの」
《優しき龍人の娘よ。まことそなたは、ヒミカの血をひいておるな》
「ヒミカって、北風の龍人ね」
《安心いたせ。我にはスサの魂を守る使命がある。ゆえに我は消えぬ》
「龍源神社と素戔嗚神社は、二社で一つってどういうこと?」
《龍源神社には、南風の龍の魂が眠っておる》
「だから、風琴の中央の弦が微かに鳴った?」
《然り》
「この洞には、たくさんの魚がいるのね。スサの祠があるから?」
《赤毒風蟲が増えはじめた折に、我は風徒たちに、ここに退避するよう念令した。だが、あの赤い風蟲の発する誘惑に多くのものは抗うことができなんだ。多くが毒を身に溜め消えた》
 流斗が言っていた。赤毒風蟲には毒があると。風徒を弱らせる毒だったのだ。風蟲は赤毒化することで、捕食者である風徒を凌駕しようとしたのか。
《我らには時がなかった。ゆえに一匹の風徒をそなたの元へ遣わした》
 えっ、レイは驚く。初めてレイと念話してくれた魚は、目の前の魚が遣わしたのか。『龍秘伝』を探せと示唆したのは、この魚だったのか。
「ごめんなさい。来るのが遅くなって」
 洞のぬしの風徒が、耳を澄ますように天井を見上げる。
《人の作戦は失敗した》
「えっ、まだ始まったばかり……」
《赤毒風蟲は突然変異により発生した。遺伝子レベルで根こそぎにせねば、同じ轍を踏む。吹き飛ばしたくらいでは、また増殖する。それがわからぬとは、人はいつの世もなんと愚かか》
 太古の昔に人が犯した愚かさが、風徒を絶滅の危機に曝した。それゆえ北龍は、風徒の姿を人の目から秘した。それなのにまた、人の愚行が招いた温暖化で風徒たちを危機に巻き込んでいる。彼らの嘆きがレイは悲しかった。
《猶予はない。急ぎ、口伝を唱えて龍穴の扉を開けよ》
 祠に龍秘伝を供え、秘伝の銀の蓋を開ける。巻物が光りを放つ。レイは風琴を弾き、口伝を唱える。
 真ん中の弦が鳴った。
 龍の髭がようやく声を発した。龍の髭の弦は妙なる音色を奏で、あたりに神気が満ちてくるのがレイにもわかる。遠い昔に聴いたような、夢のなかで耳にしていたような響き。自らの奥に眠っている何かが喜び、レイは恍惚とした。この音色を私は知っている。
 洞の奥からごおっと地鳴りがした。
 その瞬間、目も開けられないほどの突風が巻き起こり、レイの体は洞の奥へと吸い込まれた。

続く

 


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