【連載小説】「北風のリュート」第21話
第21話:糸口(8)
【5月5日 北堂家】
曾祖母の北堂家は、鏡原本郷にあった。
小羽田家のある中町と本郷は南北に隣接していて、龍源神社がその境界の加賀見山の麓にある。今は基地のある中町が栄えているが、昔は本郷のほうが中心だったのよ、と母はいう。
北堂家は本郷の地主だったそうだ。
遠目でもそれとわかる長屋門が、石造りの坂道の上に聳えている。
「時代がかった屋敷でしょ。気後れがするの」
車で十分程の距離なのに足が遠のいていた言い訳をハンドルを握る母がすると、「文化財に指定されそうですね」と後部席から流斗が相槌を打つ。
門の前を通り過ぎ、坂道の行き止まりの空き地に母は車を停めた。ハナミズキの古木が一本あるが、花はおろか葉も芽吹いていない。岡崎の庭のハナミズキは、この苗木を祖母の綾子が嫁入りするときに持っていったものだと教えてくれた。
迎えてくれたのは、母の従兄の恭一で、母より三つ年上らしい。
「こちらは?」と流斗の姿を目に止めて尋ねる。
「気象研究官の天馬流斗といいます。小羽田家に泊めていただいています」と流斗が名刺を渡していた。なぜそんな男が一緒に、と恭一は不審そうだったが、流斗は気にしているようすもなかった。
「叔父様は?」母の美沙が尋ねると、
「親父は龍源神社に夏越の祓の打ち合わせに出てる。氏子総代なんでね。美沙ちゃんによろしく伝えてくれって」
幼い頃に一度訪ねているというが、レイには記憶の欠片も浮かばなかった。屋敷が山裾にあるからだろうか。空の魚がけっこう泳いでいる。
奥の座敷に車椅子に座った老女がいた。
皺くちゃの手を宙にあげて、ふふふ、と楽しげに笑っている。
小さな透明の魚が、老女の手の先で戯れている。
レイは目を瞠った。
「おばあ様、ごぶさたしています。美沙です」
老婆がちらりと顔をあげる。
「ほれ、そこを魚が泳いどるね」
認知が進んでてね、妙なことを口走るんだよ、と恭一が母に話しているのが聞こえたけれど、かまわずにレイは車椅子に走り寄る。
「見えているのね、空の魚が!」
レイは声を昂らせて、車椅子の足もとにひざまずく。
老女がとろんと眠たげな目を向ける。
「綾ちゃん、走ったらいかんよ」
レイは母を振り返る。
「たぶん岡崎のおばあちゃんと混同してる」
それでもいい、とレイは思った。
「お母さん」と綾子のふりをして声をかける。
「これ、何かわかる?」
レイは桐箱から風琴を取り出し、老女の膝に置く。
「綾ちゃんがお嫁にいくときに、あげましょうね」とレイの頭を撫でる。
「弾いてみて」
レイが曾祖母の琴乃の手をとり弦にのせる。
「こんなふうに」と、レイが弦を一つはじく。
ポロンとやわらかな音がたつ。
「魚が喜びよるね」と笑う。
「ほら、おばあちゃまも弾いて」
レイの手に導かれ弦に指をかけるが、鳴らない。
「綾ちゃんが、弾きやせ」とレイに楽器をおしつける。
レイが奏でると「魚がほれ、喜びよるよ」とにこにこする。
恭一は目の前の光景にぽかんとしていた。
「おばあ様に見えている魚は、レイにも見えているの」
「あの二人には、風が魚の姿に見えるんですよ」
流斗も背後から口を添える。
レイは流斗が恭一に語るのを背中で聞きながら風琴を弾く。
「ひいおばあさんは、レイさんのように成長しても見えていたかはわかりません。認知機能に衰えが出始め、余計なものが払い落されて、子どもの頃の感覚がよみがえったのかも。といっても、ぼくは医者でもないし脳の専門家でもないので、素人考えです。それでも見えているものを否定しないであげてください」
恭一は無言だ。しかたないとレイは思う。
「ひいおばあちゃん、龍秘伝って知らない?」レイが尋ねる。
「なんと?」
「りゅうひでん」
耳もとに口を寄せ、レイは一語一語ゆっくり刻むように話す。
「なんね、それは」
琴乃はうつらうつらしだす。
レイは諦めて、風琴を子守唄代わりに奏でる。
眠りに落ちたのを認めると、恭一を振り返る。
「龍秘伝を探しています」
「それは何や?」
「わかりません」レイは首を振る。
「龍人って、聞き覚えはありませんか? あるいは、龍人にまつわる言い伝えがこの家に残っていませんか」
レイはすがるように尋ねる。
流斗が【龍人】【龍秘伝】と表示したタブレット画面を見せる。
「聞いたことないなあ。それが、どないした?」
「レイさんは、龍人の血を継ぐ娘だそうです。つまり龍人の末裔です。この楽器は代々母から娘へ伝えられてきたそうですね。ですから、それを遡れば、龍秘伝のありかがわかるのではないかと考えています」
流斗がレイの話の穂を引き継いでくれる。
「空に魚が見えるは、龍人の血か」恭一が訊く。
「可能性は高いかと」流斗が肯定する。
そうか、と恭一は顎をぽりぽりと掻く。
「蔵を調べてみよう。親父にも訊いてみる」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
体を直角に傾けてレイは頭を下げる。美沙と流斗も辞儀をしていた。
一週間後、恭一から「すまない、蔵にも屋敷にもそれらしいものはなかった」と連絡があった。
捜索の糸は途切れ、曇り空はますます暗くなる一方だった。
母から教わった口伝を唱えながら、レイは竜野川の堤で銀に光る風琴をつま弾く。魚は寄ってくるが、話しかけてくるものはいない。あいかわらず中央の弦は鳴らず、謎は一つも解けないままだ。
ネットで「龍人」「風琴」「風蟲」「龍秘伝」を検索してみたが、ヒットはしてもゲームのタイトルやキャラクター名ばかりで求めているものとは遠かった。