アンノウン・デスティニィ 第1話「怪盗」
※今作品は宇佐崎しろ先生によるイラストをモチーフにした創作大賞2023「#イラストストーリー部門」への応募作品である。
第1話:怪盗
【2035年5月10日】
女がふたり、長く美しいプラチナブロンドをなびかせて向き合っていた。正面を向いた女は明るい鳶色の瞳のまなじりをきっと吊り上げ、背を向けた女の喉もとに果物ナイフを突きつける。
窓辺には夕闇が迫り、ログキャビンの高い天井から吊るされた照明が彼女たちの金髪を妖しく輝かせていた。緊張と静寂が室内を支配する。
「あたしが鳴海アスカだけど、あんた、誰?」
「あたしも鳴海アスカよ」
鏡で見るのと同じ顔が目の前にあった。
【2035年5月3日、つくば市・国立基礎応用科学研究所】
無機質な白い壁に囲まれた廊下を白衣の男がひとり、右手にバニティケース大のジュラルミンケースを持ち、左手はポケットにつっこんで、それが癖なのだろうか、いくぶん前のめりに体を傾けながら進む。銀縁の眼鏡にかかるぼさぼさの前髪が顔を隠す。鼻と頬がわずかに煤のようなもので黒く汚れていた。背は高くもなく、低くもない。猫背ぎみの肩がゆれる。これといった特徴のない外見。ラボに500人はいるという研究者の最大公約数的なタイプだ。ただし、ひとつ特異な点があった。おそらく気づく人は稀だろう。リノリウムの床を無造作に歩いているのに、先ほどから足音はまったく響いていない。視覚を遮断すれば、そこに人がいる気配は微塵もなかった。空気だけがゆらいでいる。
通いなれた通学路のように角を次々に曲がる。頑丈なセキュリティ扉がそのたびに行く手を阻む。
レベル1、クリア。レベル2、クリア‥‥レベル5、オールクリア。
何重にも掛けられた生体認証システムを解除しながら、飄々とラボの深奥にある「立ち入り禁止区域」に向かっていた。進入を許可されている数少ない関係者であることに疑念をはさむ愚かさを嘲笑うように最精度のセキュリティを難なくクリアしていく。
五重の扉の向こうに保管されているものの正体を知るのは、ラボ内でも所長と理事長クラスそれに実質の管理者数名でしかない。国家機密と噂されていた。
男が認証盤に左手を置く。きっちり3秒後にゴトリと最初の重い一音をたて内部で鍵が順にはずれる機械音が短いアリアを奏でると、男は左の口角を薄くあげた。
鋼鉄の第5の扉が厳かに開く。
男はためらうことなく足を踏み入れる。背後で扉が鈍い音をたて閉まった。
顎だけで軽く振り返る。
これが罠だとすると、これほど巧妙な罠はないだろう。最後の扉の向こうに求める餌があり、手に入れた瞬間、ケージの中のネズミよろしく五重の扉は五重の檻となる。その可能性を微塵も検討しなかったのだろうか。餌が偽物である可能性も。
髪がじゃまして表情は読めない。ときどき無精ひげを掻く以外はむだな動作はなかった。
ジュラルミンケースを入口近くの台に仮置きすると、床に記された定位置につく。両腕を左右に伸ばす。まるでゴルゴダの丘のキリストだ、すべてを背負って磔にされる日もそう遠くはないのかもしれない。そんな感傷が男の脳裡をかすめた。縦横無尽に走る赤外線センサーが頭や腕の位置をマッピングすると四方八方からロボットアームが伸び防護スーツをセットする。10秒もかからなかった。再びケースを手に取り、前方の表示板に認証コードを入力する。
次室はさらに狭かった。3メートル四方しかない。部屋の中央に立つ。天井と四方の壁から容赦なく消毒液が噴霧される。防護スーツを着ていても痛いほどの圧だ。噴射が止むと、熱風が吹きつけあっというまに水滴は一つ残らず霧散した。つい数秒前までシャワールームと化していた床にも一滴も残っていない。
ラストゲートの鍵は虹彩認証だ。虚ろなボックスの向こうを凝視する。重い扉が音もなく開く。同時にエアシャワーが天井から噴射され、強風の洗礼を受けた。
風の壁の向こうには、冷気がこぼれるからっぽの白い空間が広がっていた。
いや、正確には宇宙船のハッチのような大きなリングのついた立方体の冷凍保管庫がポツンとあるだけの空間だった。他には何もないぶきみなほど清澄な無菌室。天井も壁も床もまっ白な空間に鎮座するステンレスの箱のきらめきが乱反射していた。
まっすぐに冷凍庫に歩み寄ると、リングを回し厚さ10センチはある頑丈な扉を開ける。
マイナス150度の冷凍庫にはガラスのシャーレが一つ凍りついていた。
コンクリートの塔に閉じ込められ氷の玉座に眠る、眠り姫。シャーレのなかみが特別な何かであることだけは確かだ。
男はそれをすばやく液体窒素を満たしたデュワー瓶構造のケースに移し密閉する。
その間、わずか30秒。
ふたたびエアーシャワーの壁をくぐり、手順を逆にたどる。
怪盗ならば薔薇の花でも残しておくべきだったか。そんなのは小説のなかだけの派手なパフォーマンスだ。警備のアラームをシャットダウンできたのは5分だけ。カウントダウンが開始されている。急がなければ。これが終わりのはじまりなのだから。
男は五つの扉を次々に通過する。
ラボに配置された5棟の研究棟は光庭をまるく取り囲み、それぞれが渡り廊下で結ばれている。庭の中央にあるガラス張りの筒が高く天を衝く。その円筒のなかを4機のエレベーターが上下していた。エレベーター塔と研究棟は、これも放射線状に渡り廊下で結ばれている。ラボの全景を上空から眺めると大きな車輪のようにみえるだろう。研究棟内は外界と遮蔽され人工照明だが、渡り廊下は全面ガラス張りの空中回廊でうららかな陽光をあびていた。
男は渡り廊下の前で立ち止まると、左ひじを直角に曲げ腕時計をにらむ。数秒を数え、にたりと口角をゆるめ光の回廊へと歩みだした。
まぶしさに一瞬目を眇めると、空間がぐにゃりとゆがんで光をのみこんだ。
あとには男の姿はなく、春の陽光に埃が螺旋をまいていた。
(to be continued)
【第2話】https://note.com/dekohorse/n/n47aeb7d50ded
【第3話】https://note.com/dekohorse/n/n8428f5fcbe45
【第4話】https://note.com/dekohorse/n/ne3cbf0d60977
【第5話】https://note.com/dekohorse/n/nbdb81072ee0a
【第6話】https://note.com/dekohorse/n/n24188ebd6bfe
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