大河ファンタジー小説『月獅』 1
第1幕「ルチル」
第1章:白の森(1)
ヴェスピオラ火山の火口から、何かがまっすぐに天に向かって弾丸のように飛びたった。
同じ鷹の翼を大きく広げ、ライオンの下肢をもったグリフィンが一頭、鋭い眸を光らせ、天界と下界をつなぐ雲の裂けめでホバリングしながら仲間の飛来を待っていた。
「ようやくのお目覚めか」
「どれだけ経った?」
「五百と五十年だ」
「五百五十年か。下界はどうなった?」
「あいかわらずさ。行くのか」
「ああ。今度こそ黄金を守りぬく」
言うが早いか、ビュイックはまた弾丸と化して下界へと急降下した。
愚かな人間のためにビュイックが二度と傷つかぬよう、アズールは波打つ雲の海原の一点をみつめて願った。そうして、翼をひと振りすると天へと還っていった。
* * * * *
はぁ、はぁ、はぁ。
男物の緑のマントをはおり頭巾で顔を隠した女が、息も絶え絶えに白の森の樹々のあいだを時おり天を仰ぎながら走る。肩から大きな布の包みを胸の前に斜めに架けていた。地面を裸足で踏みしめたことなど、ほとんどなかった柔らかな足裏は、盛りあがった根や落ちた小枝、栗のいがやごつごつした石に傷つけられ、裂けて血が滲んでいた。なめし革の靴はとうに破け、脱ぎ捨てた。
白の森の王はご無事だろうか。
頼るのではなかった。森の力が弱まっている。
* * * * *
かつては人が足を踏み入れることなどかなわないほど樹木や蔓草が生い茂り、白銀の葉が上へ上へと重なり、日の光はそれらの間を縫って幾筋も降りそそいでは白肌の樹皮に反射して神々しかった。光の森。そう讃えられることがふさわしいほど森は輝いていた。森の奥にある王の玉座は「萌えの褥」と呼ばれ、王が横たわると色とりどりの若草や花がよろこびの声をあげて芽を伸ばし絡まり王をもてなす。王が踏みしめた地面からは草が生い、息を吹きかけると真珠色の花が咲く。森は王の気力と精神を反映する。クッションよりもふかふかと弾力のあった褥も、今や銀苔は剝げ落ち若芽は枯れ、ところどころ黒ずんだ土壌が露わになっている。
それでも白の王は毅然として在り、おのれに助けを求める生命を褥に受け入れ庇護する。それがたとえ、森の力を削ぐ元凶となっている人族に属するものであろうとも。
ルチルは幼き日に迷い込んだ白の森をめざした。
ときどき立ち止まってこちらを振り返るトビモグラの背を追いながら、暗い地下の穴道を駆ける。もう一匹がルチルの背後を護っている。追手をかわすため父が用意してくれた案内人たちだ。縦横無尽に張り巡らされた地下迷路は、彼らにとっては慣れた道でも、灯りも乏しく随所に石や根が走っていてルチルは何度もつまづき、転びそうになった。
――白の森の王なら助けてくださるかもしれない。私はどうなってもいい。この卵だけでも森が護ってくれるなら。
森の入り口は蔓や樹々によって閉じられている。立ち入ろうとすると、いっせいに枝が伸び搦めとられ排除される。入れてもらうには、ひざまずいて祈るしかない。心からの祈りが王へ届けば、森は開かれる。
ルチルは六歳の夏の日を思い返した。その夏いちばんの暑さの日だった。
太陽がぎらぎらと照りつけるさなか、優しいけれど口うるさいナニー(世話係兼教育係)のカシの目を盗んでオビ川べりの草原に出かけた。こっそりと屋敷を抜け出たものだから、帽子をかぶるのを忘れた。
「白の森に用もなく近づいてはならぬ」
もの心ついた頃からおとなたちに諭されてきた。古くからの掟なのだと。
広大な白の森を囲うように四つの村がある。北にノルテ村、西にオクシ村、南にスール村。そして東にあるのがエステ村だ。
森に害をなさなければ、満月の夜に森の恵みは、村ごとに築かれた遥拝殿に山と積まれる。それを日の出とともに人びとは恭しくいただき、感謝の祈りを奉げる。人はむやみに森に近づかない。かわりに森はその恵みを等しく分け与える。互いに互いの領分を犯さないことで、白の森と人は千年あまりつつましく幸せをわかちあってきた。
ルチルの家はエステ村の領主だ。
古くは小さな村の村長にすぎなかった。それがレルム・ハン国が白の森とその周囲の四村も治めるようになった五百年あまり前に、税を納める代わりに領主となり、王国の貴族の末席に名を連ねることとなった。だからといって、大きく何かが変わったわけではない。与えられたのは貴族の称号だけで、税を取り立てられるぶん村の暮らしは厳しくなったといっていい。それでも、つつましくあれば平穏だった。
太陽の昇る東のなだらかな丘陵地にあるエステ村は、果樹や畑の実りに恵まれていた。領主の邸宅は陽当たりのよい丘の上ではなく、丘の麓の白の森の近くにあった。代々の領主が村人や村の実りを何よりもたいせつにし、自分たちの役割は村と白の森を護り、森への祈りを奉げることであるとしてきたからだ。古くは東の遥拝殿を護るように、その脇に屋敷をかまえていた。だが、五代前のあるとき、領主が森の恵みを独占しているという噂がたった。そんなことはないと反論する村人のほうが多かったし、お館様が少しくらい多く取るのは当然だという者もいた。だが、それが村を二分するほどの論戦となり、噂を噂として放置できなくなった。
村の平安を重んじた五代前の領主イカルは、屋敷をオビ川の対岸に移した。およそ三百年前のことだ。
村には北のノリエンダ山脈から川が流れている。ノリエンダ山の豊富な雪解け水を集めた小川は、白の森の北の先端で二本に分かれ、一本は森の東に沿って流れオビ川となる。もう一本は森の西側を迂回するイビ川だ。だが、実は三本あると云われている。いにしえには、川は三本に分かれていて、真ん中の一本は白の森へと流れ込んでいたそうだ。ところが、川をつたって白の森に侵入し、毛皮を求めて毛ものたちを乱獲する輩が後を絶たず、怒った森の王は川を地中深くに沈めたという。その川、かつてのルビ川が今はどうなっているかを知る者はいない。
イカルは邸宅を移すと同時に、今後このような争いが起きないように、また、森を護るためにも、森のまわりに緩衝地帯を設けることを決めた。オビ川と白の森の間は村の土地とし、そこに家を建てることを禁じた。以来、オビ川と森のあいだには草原が広がっている。牛たちが草をはみ、鳥が河原でさえずる。子どもたちにとって、かっこうの遊び場だった。
<続く>