【連載小説】「北風のリュート」第36話
第36話:龍秘伝(1)
【6月17日】
緊急対策本部が稼働して一週間。
進展したことは、患者受け入れ先として鏡の森緑地公園にあるアリーナに簡易ベッドが運び込まれ、DMATに代わりJMATが診療にあたっているくらいだ。酸素投与の対処療法しかなく、依然として有効な打開策は何も示されず、ロックダウンが解除される兆しも見えない。
ただし、市外にさえ出なければ外出は自由で、市民生活に制限は掛けられなかった。生活必需品輸送の大半は鏡原基地のC2輸送機が担っている。個別の物流は遮断されているが、荷物は小牧基地に集められC2で鏡原に運ぶ。ロックダウン発表翌日には、スーパーの棚から商品が消える買い占め騒ぎがあったが、常時と変わらず商品が届くとわかり、混乱もすでに収まっている。救急車のサイレンとC2の爆音が響くだけの、不気味なくらい静かな日常の列が続いていた。
高祖母の房江で『龍秘伝』の糸が切れ、レイは途方に暮れていた。
何かしなければ。焦りだけがレイを苛む。とりあえず「龍」のつく地名を調べよう。というか、それ以外思いつかなかった。
インターネットの検索にかけたが、これといった内容はヒットしない。AIに『龍秘伝』を質問してもゲームのアイテムと捉えられ、レアアイテムの見解が示される。市立図書館の郷土資料室で片っ端から資料を探したが、基地の町としての歩みや戦後の復興についてなど比較的新しいものばかりで、古い資料は鏡原空襲で焼失したり散逸し残っていなかった。
唯一、『鏡原地誌』という一冊に龍神伝説の記述を見つけた。
それによると、「龍がこの地で亡くなり、流した涙が鏡池となり、ここが鏡原と呼ばれるようになった」そうだ。興味深い伝説ではあるが、肝心の龍人や龍秘伝にまつわる記述はなかった。龍ケ洞トンネルなら市役所の土木課に尋ねたほうがいいんじゃないかと、年配の司書にアドバイスされた。勇んで土木課も訪ねてみたが、トンネル工事の記録しか残っていなかった。観光協会で龍にまつわる碑文はないかと尋ねると、「この辺り一帯は龍源神社の御神域や鎮守の杜だったから、古いことは宮司さんに直接訊いてみたらどうか」と勧められた。
空振り続きで、レイの気持ちは空と同じに淀む。
あいかわらず、空の魚はいくら話しかけても答えてはくれない。
自転車の荷台に楽器ケースをくくりつけ、住宅街の道を斜めに抜け加賀見山の麓の龍源神社をめざした。町に人影はなく、列車はノンストップで鏡原を通過するためホームには誰もいない。走り去る列車を眺め、ロックダウンの現実に涙がにじむ。監獄に閉じ込められているようだ。古い映画で観たアルカトラズ島みたい。罪も犯していないのに、ここから出してもらえず、死を待つのだろうか。
一の鳥居の傍らに自転車を停めた。
社殿へと続く参道は長い石段で、両脇の並木は葉を落とし、赤く暗い空が透けてみえる。三の鳥居をくぐる。手水舎脇の楠も葉を落としている。それでも、本殿の背後が加賀美山に続いているためか、空の魚たちがここには多い。レイが背負っている楽器ケースを突っつくものもいる。弾いてほしいのだろうか。
「おや、あんたもかね」
白い上衣に紫の袴姿の神職が、拝殿前を掃き清めていた手をとめて振り返った。
社務所で宮司に訊きたいことがある、というと「お父さん、このお嬢さんが話を聞きたいんだって」と紫袴の神主に声をかけてくれた。頭頂部は薄くなり頬には老人斑もいくつか浮いているが、背筋は伸び壮年といってもよいくらいにみえた。
「龍秘伝のことを尋ねた人が他にもいたんですか?」
レイの声がオクターブ跳ねあがる。
龍秘伝を知っている人がいるのなら、会えば何かわかるかもしれない。予期せぬ展開に鼓動が早まる。
「それも昨日な」
「どなたか教えていただけませんか」
「個人情報を教えて、ええもんかな」
宮司が困ったように首を傾げる。
「あんた、どこの人ね」
「中町の小羽田医院の小羽田レイです」
「小羽田先生とこのお嬢さんか」
案内してくれた女性が宮司の袖を引き、北堂さんに連絡してみようか、と囁く。
「北堂ですか?」レイが声をあげる。
「知っとるのか」
「北堂琴乃は曾祖母です」
「綾ちゃんの孫か」ほんなら心配いらんの、と破顔する。
「龍秘伝を邦和さんに返したとこよ」
「返した?」
聞き返そうとしたときだ。
ピリリリ。
スマホが鳴った。母からだ。
『レイちゃん、どこにいるの?』
「龍源神社」
『邦和叔父様から、龍秘伝が見つかったって。それでおばあ様が風琴を聴きたいんですって。風琴は持ってる? じゃあ、迎えに行くから。石段を下りたところで待ってて』
「お母さん、私、自転車で……」
レイの返事も聞かず、母は要件を伝えるとスマホを切った。午後診までに戻りたいのだろう。きっともう、車のエンジンをかけている。
「すみません。失礼します」
舌を噛みそうな勢いで告げ、背を向ける。肩に提げた風琴が尻を打つ。
「邦和さんに、よろしうな」
宮司の声にレイは振り返り、形だけの礼をして階段を一段飛ばしで駆け下りた。