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【連載小説】「北風のリュート」第25話

前話

第25話:散らばる異変(1)
【6月1日朝 小羽田家】
 二十五日にサンプルを採取してから、空に赤い浮遊物が増え、やがて人々の目にも雲の底が赤く染まっているのが見え始めた。空が日ごとに暗く重たくなっていく。昼でも街灯が消えず、車のライトがうすぼんやりした闇を掃き、背後に赤い帯を残して走る。
 
 六月一日朝。目覚めるとボッシュが口から泡を吹いていた。
 階段を上るボッシュの足取りは日ごとに重くなり、一段ずつ立ち止まり荒い息を吐いていた。ボーダーコリーの寿命は十二歳前後とされる。ボッシュは十歳の高齢犬だ。暑さがますます酷くなり父が早朝ジョギングを中止したため、夕方にレイが散歩をさせていた。道端に座りこむことが増えたのが気になり、三日前にかかりつけの動物病院を受診した。
「肺炎でもないし、胸水も腹水もたまってないわね。熱中症でしょう。ボッシュ君は高齢だから散歩は中止して。こう蒸し暑いと人間でもしんどい。犬は毛皮を着ているし、汗をかけないからね。熱は地面に溜まるんで、犬のほうが影響を受けやすいの。エアコンの温度設定も低めにね」

 土曜だったのでレイはいつもより少し遅く起きた。
 先週の土曜は、赤い物体の採取だった。風蟲ワームと赤い微生物の映像が瞼の裏で交錯する。あの二つにはどういう関係があるのか。寝起きの頭でぼんやりと反芻しながら、ベッドから降りてボッシュの異変に気づいた。
「ボッシュ? ボッシュ、ボ――ッシュ!」
 体を揺する。口もとに手をやる。息を……してない?
「お父さん、ボッシュが!」
 階上からリビングをのぞく。声がわななく。足が震える。父はクリニックへ向かうところだった。
「どうした!」父が駆けあがって来る。
 レイは寒いくらい冷房の効いた自室の床にぺたりと座りこみ、「ボッシュが」と父を見上げる。
 父はすぐに首筋を触診する。眠るように横たわるボッシュを仰向けにし、人用の聴診器を胸にあてている。仰向けにしても、ボッシュはぬいぐるみのように抵抗せず、ぴくりとも動かない。口から涎が垂れている。
 レイは祈るように手をきつく合わせ、唇を噛み締める。
 父が聴診器をアルコールで拭いて白衣のポケットにしまう。レイが見つめると、静かに首を振った。
 目の前が白く霞んだ。黒と白のボッシュの毛並み以外が視界から消える。レイは夢中でその首にすがりつき、艶やかな背に顔を埋める。
 何も見えない。何も聞こえない。水底にいるようにすべてが重たく、全身から感覚がずり落ちる。いつのまにか母が背を撫でてくれていた。「病院はいいから、しばらく付いていてやりなさい」と母に言い残し、父が出ていくのをぼわんと膨張した鼓膜で聞いていた。
 喉の内を熱いものが滑り落ちていくのを止めることができない。
 なぜボッシュの急変に気づかなかったの。同じ部屋で寝ていたのに。ようすがおかしかったのに。苦しんでいただろうに。ボッシュには、空の魚が見えていた。ボッシュだけが同じ世界を共有してくれていた。誰からも理解してもらえない世界を生きてきた私の、たった一人の相棒だったのに。せめて抱きかかえて膝の上で逝かせてやりたかった。最期の一秒まで共有してあげたかった。
 冷たい液体が心の襞をなぞり滝のように流れる。けれど、現実には一滴も涙がこぼれない。鳩尾みぞおちがきりきり痛むのに、涙の流し方がわからない。涙を流して悼んでやることすらできないなんて――。私には心の破片もないのだろうか。
 ぶるぶると体が冷え、腕が指が感覚を失くしていく。体の芯が空洞になる。静かに眠るボッシュの傍らに横たわり、その胸にぎゅっと耳を押し付ける。微かに聞こえるのが、ボッシュの拍動なのか、自分の鼻息なのかの区別がつかない。息が苦しい。

 《ボッシュが天国に》
 グループトークにそれだけをつぶやき、レイはボッシュを横抱きにして床に突っ伏した。
 
 昼過ぎに迅が息を切らして駆けつけた。
「レイちゃん、立原さんが」
 レイはうつ伏せていた体を引きずるように起こし、視点の定まらない目を向ける。
 はぁ、はあ、はぁっ。
 迅が戸口で膝に手をつき、息を整えている。
 ボッシュの荒い呼吸が、レイの耳裏によみがえる。
 うっうぁうぁああああん。
 嗚咽が涙を伴い堰を切ってほとばしり出る。
 レイは膝にボッシュを抱え、全身を絞るように泣きじゃくった。

続く


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