【連載小説】「北風のリュート」第35話
第35話:ロックダウン
【6月10日夜】
『龍秘伝』の探索は、風のない凪の海で羅針盤を失った舟のようだった。
刻々と悪化していく空を眺めるにつれ、焦りがレイの胸で吹き荒れる。
六月十日昼の十二時にNHKの速報で、内閣感染症危機管理統括庁内に『鏡原クライシス緊急対策本部』の設置が公表された。フラッシュの弾けるなか横一列に居並んだのは、肩書のやたらと長い錚々たるメンバーだった。
速報が出るやいなや、《無念》とひと言、流斗のつぶやきがあった。
夜の九時過ぎになって、流斗からビデオトークの誘いがあった。
二人の顔を見るのは一週間ぶりにすぎないのに、ひと月以上会っていない気がした。誰かに会いたいとか、話したいとか。渇いた喉が水を求める切実さで人を求めたことは、これまでのレイにはなかった。画面越しに顔を見るだけで、声を聞くだけで、胸がもみくちゃになる。
『鏡原クライシス緊急対策本部』は方向性がまちがっていると、流斗は力説する。鏡原を脅かす暗雲は、ウイルスや細菌による感染ではなく、気象災害であり、封じ込めは逆効果だと。迅も噛みつく勢いで同調する。イーグルで飛行する迅は、最も赤毒風蟲に接近して鏡原の異変を俯瞰で見ている。演習空域から戻ると、鏡原の上空は禍々しいほど赤いと訴える。
『感染症なんて、ありえない。政府高官は雲の上から鏡原の空を見ろって言いたいですね。いつでもF15DJの複座に乗せてやりますよ』
『いいねえ。ぼくも乗せてよ』流斗のため口にいつもの覇気がない。
『自分で池上副司令の許可を取ってください。そういえば、副司令をけしかけましたか。廊下ですれ違ったら、俺をいいように使いやがってとこぼしてました』
『立ってるものは親でも使えっていうだろ』
知り合いになってて良かったよ、と頬をゆるめたが、すぐに笑いを消す。
『ごめんな。ぼくがもたもたしてたから、鏡原を苦境に。でも、絶対になんとかするから』
鏡原を救おうとする二人の議論に、レイはひと言も挟むことができずにいた。二人は大人で、自分は何もできない女子高生で。それが悔しい。早く大人になりたい。早く二人に肩を並べたい。せめて『龍秘伝』だけは、自分で見つけなければ。レイはベッドの上の風琴に目をすべらせる。
十一日、日本政府としては異例のスピードで鏡原市のロックダウンが閣議決定され、十二日から無期限で実施されると速報された。謎の病の呼称は『鏡原病』に決まりかけたが鏡原市長の猛抗議により『KR病』と実体のわからない名称に変更された。Kが鏡原、Rは呼吸器疾患を表すそうだ。
世界へのアピールと、財界と国民の突きあげを押さえるためだけのロックダウン。政府の関心は鏡原の上を素通りしていた。