【連載小説】「北風のリュート」第40話
第40話:空の赤潮対策本部(2)
「鏡原市長の庭本だ」
丸顔の小太りの男が、椅子を倒して立ち上がる。丸まると頬が盛り上がっている風貌から『アンパンマン市長』と呼ばれていることを思い出し、流斗は眼鏡の奥で微笑む。
「市民の安全確保を第一に考えた全住民避難の提案には感謝します。だが、鏡原の人口は十万人。十万人もどうやって……」
<十万人だと><どこに?><どうやって?><謎の感染症の保菌者かもしれない住民を、どこが受け入れるんだ><これだから学者は>
ひそひそと囁く雑音がやかましい。
バン! 机を叩く音が響いた。
「話を聞くこともできんのか!」
池上のダミ声が、小うるさいざわめきを蹴散らす。
「まず、聞いてから建設的な提案をしたらどうだね」
鷺池陸将も、どすの効いた重低音で脅すように諭す。
たちまち室内は咳もためらうほど静まり返った。
流斗はペットボトルの水を呷って続ける。
「受け入れ先自治体はあるのか。はっきり言って、無い。放射性廃棄物の処理先選定がどれだけ難航したかご存知でしょう。奇特な受け入れ先を待っていては、鏡原住民が全員酸欠で死亡します」
「国交省の林だ。受け入れ先は皆無といったな。では、どこに十万もの市民を避難させるのだ。無人島にでも運ぶのか」
「それです」流斗が林を指さす。
「真っ先に無人島案を検討しました。ですが、全市民移送の壁にぶち当たりました。無人島では滑走路がないため飛行機を使えません。中部国際空港まで移送後、海自の船で無人島へと考えましたが、無人島には港湾設備がないため大型船を接岸できない。それに、十万人を収容できる施設も無い。仮設住居を建てるとなると、資材の輸送も考慮しなければならない。現実的でないと判断しました」
「では、どうするのだ」
「無人島並みに隔離できる場所として」流斗は眼鏡のブリッジを上げる。
「空港利用を提言します」と高らかに宣言した。
「空港か」
盲点をついた提案に、座が唸る。
「無人島への移送手段を考えていて、中部セントレア空港が海に突き出ていることに気づきました」
なるほど、とうなずく声が聞こえる。
「現在、国際線は稼働していません。国際線を有する拠点空港ほど開店休業状態です。空港には大人数を収容できる建物があります。中部セントレア空港は洋上にあるため隔離という観点からの理解は得やすい」
「なるほど。だが、あそこに十万人は収容できんだろう」
「おっしゃるとおりです。それに一空港だけでは住民輸送に時間がかかる。羽田と関空も洋上です。これらも一時避難場所にできないでしょうか」
うううん、と航空局の林が唸る。
「羽田はともかく、セントレアと関空は会社管理空港だからな」と渋る。
「管理うんぬんをほざいている場合ですか。人命がかかっているんですよ。一刻を争います。それに、国際線が飛ばせなければ、空港管理会社の赤字も積みあがる。鏡原クライシスが解決しなければ日本経済が海底に沈みます。いいんですか」
緊張が室内に漲る。
「空港の他に最適な場所はあるのか?」
池上のダミ声が舐めるように問う。皆、互いの顔を見合わせている。
「異論はないな」池上が気魄で押す。
「では、鏡原全住民の緊急避難の決定と、避難先は中部、羽田、関空でよろしいかな」
議長の榊原が総括し、流斗に先を続けるよう促す。
「ご賛同いただきありがとうございます。では、実務の説明に移ります。準備に明日から二十四日までの六日。避難実施は、二十五日から二十八日までの四日間。予備日は二十九日。素人なりに、移送計画を立ててみました」
移送計画まで、すでにあるのか。どよめきが起こる。
「あくまで叩き台です。現場レベルで臨機応変に変更してください。ただし鏡原の状況から、日程をこれ以上後ろにずらすことはできません。遅くとも二十九日までに全住民避難を完了する。これがデッドラインです」
その叩き台がこちらです、と言いながら流斗はスライドを切り替える。
「陸路で二万、空路で八万人。一日陸路五千人、空路二万人の四日間です。陸路はセントレアに、空路は関空と羽田に振り分けます」
「空路はセントレアに割り振らんのか?」
「距離が近いため、離陸後すぐに着陸になります。大型旅客機では難しいと判断しました」
レーザーポインターで説明を始める。
「陸路はN鉄です。鏡原からセントレアまでノンストップで運行。九十名の七両編成を時間差で二本走らせます。A特急出発三十分後にB特急を発車。これを四セットで一日五千名強を計算上は達成できます。詳しい運用については、N鉄と詰めてください」
国交通省鉄道局の本村がスマホを耳にあてながら会議室を出る。
「空路は一便につき五百人運搬可能と想定し、四十便を関空と羽田に振り分けます。この運行が可能かどうか、私ではわかりかねるので、各空港の管制官ならびに航空会社と早急に詰めてください」
航空局の林が会議室を飛び出す。
「入院中の患者は、自衛隊と消防での搬送をお願いします。一度に大量輸送できないため、移送先が決まり次第、避難開始の二十五日を待たずに搬送してください」
淀むことなく流斗は説明を続ける。
「患者の大半は、鏡原を脱すると快復が見込まれます。移送によって呼吸困難が解消された映像を積極的に流すことも、戦略の一つでしょう。感染症でないことが立証されれば、受け入れ先も増えます。受け入れ病床については、厚労省が確保をお願いします」
流斗は焦点を鏡原市長の庭本に戻す。
「鏡原市には、住民の振り分けをお願いします。十万人をどう振り分けて、どう通知するか。最もこれが困難な作業になると思われます。自家用車での移動は、行政で管理ができないため禁止してください」
「高齢者施設の入所者は、入院患者と同じく自衛隊による移送が妥当です。移送先は病院でなく基本、空港で。現場の大変な混乱が予測されます。合理的な方法で対処してください。避難が三日目、四日目と遅くなる家庭には十分な酸素ボンベの配布をお願いします。」
そこまで一気にまくしたてると、流斗は息を継いだ。
「概要は以上です。本来、ここで質疑応答に移るところですが、残念ながら私は気象研究官であって、住民避難の門外漢です。ですから、質問に答えることは不可能でしょう。六月二十九日までに避難を完了させる。それさえ厳守していただければ、あとは臨機応変に。というか、ご自由に。皆さん、自分たちのテリトリーで最大限に力を発揮してください」
その丸投げ提案に、皆、唖然とする。
くくくくっ、と池上が後ろを向いて肩を震わせていた。