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大河ファンタジー小説『月獅』 2

<前回のあらすじ>
光の森とも讃えられる「白の森」を四つの村が取り囲んでいる。東のエステ村領主の娘ルチルは、追手をさけ白の森をめざして地下の穴道を駆けながら、森に迷い込んだ六歳の夏のことを思い出していた。
森の東を流れるオビ川と、白の森の間には草原が広がっている。そこは放牧地であり、子どもたちの遊び場でもあった。

前話<第1章:白の森(1)>は、こちらから、どうぞ。

第1幕「ルチル」

第1章:白の森(2)


 草原は広く、川と森に沿って長い。
 オビ川には橋が五本架かっている。一本は遥拝殿の参道へとつづき、その南に一本、北に三本の橋がある。子どもたちはたいてい参道より北側の一本目か二本目の橋をわたった原で遊ぶ。
 その日、ナニーのカシに見つからず屋敷を抜け出したルチルは、北側のヌフ橋を渡った。カシを出し抜けたことなどこれまでなかったから、それだけで胸も足もはずんでいた。
 橋は北に行くほど川幅が狭くなるぶん粗末になる。最も北にある橋はただの丸木橋で名前すらついていない。たいていの者は、北の橋と呼ぶ。ヌフ橋は参道に架かるビザ橋についで立派だ。いや、立派というのは正確ではない。なんの飾りもないただの木の橋で、かろうじて欄干があるにすぎない。草原に放牧される牛や羊が通るため頑丈で幅が広いだけだ。
 ルチルはヌフ橋を渡ると伸びあがって遊び相手はいないかと草原に目を走らせた。ルチルのことを揶揄からかうトートたちはいないだろうか。いつもカシに手をひかれて草原にやって来るルチルを、村の悪ガキどもはばかにした。この年頃の子どもは領主のお嬢様だろうと容赦ない。「ひとりで橋も渡れないんだぜ、きっと」「おっばいをまだ飲んでるんじゃないか」などと囃したてるのだ。だから、カシに見つからず屋敷を抜け出せたことを自慢したかった。
 陽射しの暑さに牛たちも、まばらに点在する灌木の木陰で座りこみ、トートはおろか遊ぶ子どもはおらず、ずっと遠くまで見渡したが動くものの姿はなかった。太陽は真上にあって影も伸びない。
 ルチルはがっかりしたが、すぐにいいことを思いついた。
 ――今なら、誰にも見つからずに白の森に入れる。
 ――そしたら、トートたちより、ずっとずっとすごいんじゃない?
 小さな胸に不意に湧きおこった考えは、とてもすばらしいものに思えた。暑さなんか忘れるほどに。こんなチャンスは、もう二度とないかもしれない。
 ルチルはもう一度ゆっくりとあたりを見回す。ぐるりと一回転して背後も確かめる。大人にみつかったら、だいなしだもの。木陰でうずくまっている牛が蠅を追っぱらおうと頭を振る。他に動くものはない。
 ――よし、だいじょうぶ。
 あたりを警戒しながら白の森の方へと歩きだす。
 ふだんは牛たちが草をはむ傍らでかくれんぼしたり、追いかけっこしたり、自由に走り回っている。だから、放牧地を駆けたところで誰も見とがめはしない。わかっている。わかっているけど、これから禁忌を犯そうという背徳感が必要以上に幼いルチルの胸を高ぶらせ、全方位的に神経を逆立てさせた。ときどきさりげなく後ろを振り返り、大人の姿がないことを確かめると、少しだけ小走りする。ルチルは警戒しているつもりであったが、そこは六歳の浅はかさで、高い空の一点でホバリングしていた鷹の眼にはかえって不審な動きにしか見えなかった。
 太陽はルチルの愚かな行為を嘲笑あざわらうようになぶるように照りつけていた。
 首筋に太陽光が針のように突き刺さり痛くて、今朝カシが結ってくれた髪はとうにほどいていた。滲みでる汗に髪がまとわりついて気持ち悪い。だが、それをどうすればいいのかルチルにはわからなかった。いつもはカシが汗を拭ってくれる、太くてやわらかな手で帽子をかぶせてくれる。
 こんなにも白の森は遠かっただろうか。
 胸が苦しくなる。緊張しすぎて苦しいのか、歩きすぎて苦しいのか、暑さに意識が朦朧もうろうとしていろいろなことがわからなくなっていた。地表近くに張りついて淀む熱気に息もできない。白の森まであと少しなのに。足を振りあげても、振りあげても、前に進まない。熱に蒸された草の青いにおいで胸がむかむかする。目の前の風景がゆらゆら揺れ白く霞んで遠のいていく。
 息って、どうやってするの。思い出せない。
 ――ごめんなさいカシ、黙って抜け出して。言いつけを守らなくて。ごめんなさい、お父様。お母様、苦しい、助けて――。だれか。
 ルチルの体は揺れる陽炎に抱かれるようにスローモーションで崩れ落ちた。
 鷹が上空で旋回する。

 あともう少し寝かせてと、いつも思う、春の朝の幸せなめざめ。
「ほら、お嬢さん、もう、起きなせぇ」
 カシがカーテンを開ける。コマドリのさえずりが聞こえる。瞼の裏が白く明るくなる。ふかふかのベッド。寝返りをうって布団を引っぱりあげ‥‥ようとして、手の先に布団がないことにルチルは気づいた。ベッドの下に落ちてしまったのかな? 
 細く目を開けると――。
 白くまばゆい光が真上からきらきらと降りそそいでいた。きれい――と思った。うわぁ、光が踊ってる。光の粒が高い位置からつぎつぎにくるくると舞いながら落ちてくる。ルチルはついさっきまで眠たかったことも忘れ見入っていた。あれ? お部屋の天井がない。どうして? 
 と、ようやく、その鳶色の目をみひらき、人ではないさまざまな毛ものの顔がルチルを取り囲んでいることに気づいた。一瞬で目が覚める。
 ――目を覚ました、目を覚ましたぞえ。
 ――やれ、よかった。死んでなかったんだなもし。
 ――あたいがそう言ったじゃにゃあか。
 ――なんじゃ、死んどらんのけ。ひさびさにうめぇ肉が食えると思ったっちのに。
 長い耳、とがった鼻、角が生えてる額、鋭いくちばし、牙がのぞく口、ホルンのように巻いた角‥‥。さまざまな異形いぎょうがのぞきこむ。口々に勝手なことを言って騒がしい。ばさばさと大きな翼が羽ばたく音もする。ルチルはなにごとが起こったのか理解できず、怖くて声が喉の奥できゅっと固まり、全身の筋肉が痙攣けいれんする。

(to be continued)

第1章「白の森」(3)に続く→


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