ワラシ様とお茶しましょ(#シロクマ文芸部)
「紅葉からお茶の新年が始まりますんえ」
お稽古用どしたら、こちらあたりが、と海老茶の作務衣姿の女性が碾きたての抹茶をグラムで計って小さな茶筒に詰めてくれた。
店先は一間ほどの土間で、土間に面して畳敷きの店間のある古い商家の造りだった。畳の間の隅に茶箱が整然と並んでいて、作務衣姿の店員が客の注文を聞いてはせわしなく畳の間を往来する。常連さんが多く「いつものでよろしいか」と尋ねる声が店内を行き交い、馥郁とした茶の薫りがただよっていた。
十一月の三連休の最終日に同僚の島ちゃんに誘われて、燈子は寺町二条界隈の茶舗を巡った。
燈子は川端二条にある古い京町家で、座敷童のワラシ様と暮らしている(のは秘密だ)。鴨川を渡り、市役所の裏を抜けると寺町二条だから、鴨川をはさんで向かいといってもよい。
寺町二条の角を北に上がると、黒鳶地に「茶一保堂」と染め抜かれた大きな暖簾が四枚、軒からかかる黒壁の店が見えてくる。一保堂さんには煎り番茶が切れるたびに通っていたが、この辺りには他にもぎょうさん茶舗が軒をつらねているとは知らなかった。
一保堂さんの煎り番茶を教えてくれたのも島ちゃんだった。
煎り番茶は京番茶ともいい、「京都の家庭では定番のお茶やけど、薫りがちょっと独特やから、好みがわかれるんよね」と言い、お試しにと、おすそ分けしてくれたのだった。燻したスモーキーな薫りが癖になって、冬はしゅんしゅんと沸かして、夏はきんきんに冷やした京番茶で喉をうるおしながらワラシ様とおしゃべりをするのが、燈子の日常になっている。
ワラシ様は見た目は十かそこらのきもの姿の童女だが、燈子が借りている町家の気から生まれた神様なので、とうに八十歳は超えている。ワラシ様のいたずらが過ぎて借家人が居つかず、長らく一人この家で淋しさを抱えて過ごしてきたという。ワラシ様は座敷童のため家から一歩たりとも出ることができなかった――はずなのだが。
紅葉柄の被布を羽織った童女が茶舗の畳に行儀よく腰かけて、燈子が掌に持つ湯呑に口をつけ、「これはまた、なんともふくよかな」とご満悦だ。もちろん、店員にも島ちゃんにもワラシ様の姿は見えていない。燈子の湯呑の茶だけが、すすすっと減っていく。
ひと月前のことだ。
「ねえ、ワラシ様。ほんまに一度もこの家の外に出たことないの?」
燈子は京番茶を啜りながら承知していることを尋ねてみた。
島ちゃんに祇園祭を案内してもらったり、カフェでスイーツを楽しんだりするたびに、燈子は一人家で待つワラシ様のことを思った。ワラシ様は京の町のことをよく知っているが、それらは皆、カラスや猫たちからの聞きかじりにすぎず、己の目で見たものではない。知識と体験は違う。燈子はそれが切なかった。
「ねえ、いっぺん試してみいひん?」
何を? とワラシ様が肩までの黒髪をかしげる。
「ワラシ様はこの家の気から生まれたから、家から離れることがでけへんのやろ?」
「いかにも」
「ほな、家と一緒やったら、外に出られるんとちゃう?」
「なんぞ謎かけか?」妾は謎解きは得意え、と腕を組む。
「なぞなぞとちゃうよ」と燈子は笑って、あのね、とワラシ様を見つめる。
「神様は依り代があれば憑りうつれるっていうやん。この家の一部を依り代にしてあたしが持って出たら、ワラシ様も出られるんとちゃう?」
つぶらな瞳をきょとんとさせて、ワラシ様が燈子を見つめ返す。
「ダメもとで試してみいひん?」
燈子は納戸の桟が五センチほど欠けて落ちているのを見つけていた。
それを左手に持ち、右手でワラシ様と手をつなぐ。玄関の格子戸を開けて、先に燈子が表に出た。
初めてワラシ様が姿を現した日、燈子が力を籠めて手を引いても、ワラシ様はぴくりとも動かず外に出ることはできなかった。あの日の感覚と驚きを覚えている。
玄関を結界にして、燈子とワラシ様は向き合う。玄関先で斜め下に手を伸ばしたまま佇む燈子に、通行人がうろんな目を向けて通り過ぎるのを背で感じたが、他人の目など気にならなかった。燈子は左手で桟の欠片を握っていることを確かめ、ワラシ様とつないだ右手を力任せに引いた――。
するりと、あっけないほど「するり」とつないだ手を引くことができ、気づくとワラシ様が玄関を抜けて燈子の傍らに立っていた。
燈子も、ワラシ様も、驚きのあまり口を半開きにしてかたまる。
「出、出られた、外に出れた! 燈子、おおきに、ありがとう」
ワラシ様は燈子の両手をとって、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。肩までのおかっぱの黒髪が秋風に舞う。
ワラシ様は喜びのあまり、燈子とつないだ手を放して通りに走り――と、その刹那だった。ぱっとワラシ様の姿が消えた。え、うろたえる燈子の背に「燈子、こっちや」と声がした。振り向くと、また玄関内にワラシ様が戻っているではないか。
「手を離したらあかんようやの」としょげている。
「ほら、ワラシ様」と、燈子は玄関先まで戻り手を伸ばす。「手をつないで、鴨川まで散歩しましょ」
あの日から、桟の依り代としての力がどこまであるのか、散歩の距離を少しずつ伸ばして確かめてきた。うっかりワラシ様が転んで手が離れ、慌てて家まで駆け戻ったこともある。新京極の雑貨屋でワラシ様が「これ」と気に入った桃色の友禅のはぎれを巾着に縫って、依り代の桟を納める袋にした。ワラシ様と出かけるときは、バッグに桃色の巾着を入れ、燈子はワラシ様と手をつなぐ。巾着を持って手をつないでいる限り、どこでも行けることはもうわかっている。お互いに目の前のことに夢中になって手を放してしまい、慌てることもあるけれど。
「紅葉からお茶の新年がはじまるって、どういうことですか?」
京都で暮らすようになってから、燈子はわからないことは尋ねることにしている。
「口切りの茶事いいましてな……」という店員の声に、
「口切の茶事いうてな」とワラシ様の声が唱和する。
え、と燈子は視線を下げ、「ワラシ様、知ってんの?」と小声で訊く。
新茶を詰めた茶壺の封を切ることを「口切り」いうてな、茶道の一年は「口切りの茶事」で始まり、茶人の正月ともいわれるんや、というようなことを、寺町通りを歩きながらワラシ様は得意げに語ってくれた。
ふんふんと頷いていると、島ちゃんに「誰と話してんの?」と訊かれ、うっかり「ワラシ様」と口をすべらしてしまった。
「ワラシ様って、誰?」
「……」
燈子はワラシ様と目を合わせ、ワラシ様の前にかがむ。
――島ちゃんに話しても、ええ?
――燈子のだいじな友人やから、かまへんよ。けど、ここはまずい。
そやね、と燈子は立ち上がり、島ちゃんを振り返る。
「ここでは、詳しい話はでけへんの。そこの『二條若狭屋』さんでお菓子買うて、うちでお茶せえへん? うちの可愛い神様を紹介するから」
<了>
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お話に登場いただいた、京の老舗をご紹介しておきます。
『一保堂』さんの本店と『二條若狭屋』さんの寺町店は、いずれも寺町二条にあります。
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ワラシ様と燈子のお話は、他にも。
こちらもお楽しみいただけると、ふたりのこれまでもわかります。
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今週も無事、任務完了。
小牧部長様、よろしくお願いします。