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【ミステリー小説】腐心(18)

第1話は、こちらから。
前話は、こちらから。

<前話までのあらすじ>
住宅街の空家で高齢男性の遺体が発見された。死後5日ほど経つ死体は、連日35度超えの猛暑日のなか腐っていない。腐敗しない遺体について鑑識の浅田は、ヒ素の関与をほのめかす。検視の結果、死因は吐瀉物による窒息死。死亡推定日時は7月29日ないし30日。行方不明者届の受理は7月31日。失踪状況を同居家族の次男夫婦から聴取したところ、失踪日について夫婦の供述が食い違う。未必の故意も疑われるなか、防犯カメラの映像を確認。香山と小田嶋は空家の家主と現場確認に向かったが収穫はなかった。一方、署で防カメ映像を精査していた樋口が、佳代子が柳一郎を連れ出していたという。
翌日、佳代子に任意同行を求めた。

<登場人物>
香山潤一(30)‥H県警東野署刑事課巡査部長
樋口武史(24)‥巡査・香山の部下
小田嶋裕子(33)巡査・香山の部下
浅田‥‥‥‥‥‥鑑識係員
木本柳一郎(87)‥被害者・遺体で発見
木本和也(57)‥‥被害者家族・柳一郎の次男
木本佳代子(52)‥被害者家族・和也の妻
林省吾(55)‥‥空家の所有者・東京在住

「や、もう昼だな」
 香山は腕時計に目をやる。無機質な調室では時間感覚が狂う。太陽は中天にあるのだろう。入室時には伸びていたぎらつく陽射しは窓辺からすっかり後退し、四角い箱の室内は昼というのに光度が足りない。今日も酷暑だが、閉ざされた取調室では均一な空気だけがよどむ。
「昼休憩取りますか、それとも、このまま続けますか?」
 佳代子はだるそうに香山を見あげる。
「食欲なんてないわよ。これ、いつまで続くのかしら。夕方までかかるんだったら、パンでもお腹にいれておくけど。そうじゃないなら、さっさと済ませてほしいわ」
「あと一つ、確認したいだけです」
「そう。じゃあ、主人にメールしてもいい?」
 どうぞ、と促し、香山は小田嶋に「こっからは俺が」と聴取の交替を伝え、佳代子の前に陣取った。
「ところで、今日、和也さんは? お宅で見かけなかったですが、忌引きで休みじゃないんですか」
「主人は朝から葬儀社に行ってます。早く義父ちちの遺体を返していただかないと、葬儀の日も決められなくて困っているんですけど」
 皮肉をこめて佳代子が睨む。
「すいませんねえ。ご遺体に不審な点があって」
「不審な点?」
「あれ? おかしいと思いませんでしたか。猛暑の中、死後四日は経ってるのにご遺体が腐ってなかったじゃないですか」
「そうだったかしら。動顛していて、気づかなかったわ」
「猛暑でなくとも、死後四日も経つと、えげつない腐乱臭がするもんですよ。警官でも吐くやつもいます。それが、柳一郎さんのご遺体は、ほとんど腐臭を発してなかった。変だと思いませんでしたか」
 ふっ、と佳代子は軽く鼻でわらうと、あのね、と出来の悪い生徒を憐れむような目を向ける。
「あなたたち警官は、そりゃ、日常茶飯事で死体を見ているんでしょう。腐っている死体だって、それこそ山のように。でもね、ふつうの市民が目にする死体って、葬式できれいに整えられ棺に収まった遺体よ。あれが、一般人にとっての死体の標準なの。腐った死体にふつうは遭遇しないし、身内がそんなことになるなんて想像もしない。警官のものさしで測らないで」
 香山は、ぐうっと、詰まる。佳代子の言うとおりだ。捜査のプロになればなるほど、市民感覚から遠ざかる。刑事の眼で事件を眺めるのが習慣になる。事件を起こすのも、被害に遭うのも、遺族になるのも市民だ。それを忘れては肝心なことを見落とす。
「柳一郎さんのご遺体は、ナポレオンの遺体のように腐っていなかったんですよ」
「ナポレオンの遺体?」
「セントヘレナ島で亡くなったナポレオンの遺体は、本国に移送するため19年後に掘り返したら、腐敗していなかったそうです」
「まあ、そうなの」
 佳代子が興味なさげに返す。
「なぜか、わかりますか?」
「わかる訳ないじゃない。たった今知ったばかりなのに」
「ヒ素ですよ」
「ヒ素?」と問い直す声に動揺はない。
「ヒ素には防腐効果があるんですよ。もう使用中止になってますが、20年くらい前までは木材の防腐剤なんかにも活用されていました。ナポレオンの直接の死因はヒ素ではないが、体内には少しずつヒ素が蓄積していたため、遺体が腐らなかった」
 ふうん、と佳代子は気のなさそうに肘をつく。
「お宅のキッチンのシンクからヒ素の反応が出ました」
 香山がビニール袋に入った試験紙を机に置く。
「これは、何かしら」
「ヒ素に反応すると褐色に変化する簡易試験紙です」
 便利なものがあるのね、と佳代子は手に取って、目の高さに掲げる。
「だから、何だっていうの? ヒ素は自然界にふつうにあるんでしょ。米からも検出されるっていうじゃない」
「よくご存知で」
「いつだったかしら、ワイドショーで騒ぎ立てていたことがあったわ。確かひじきや魚介類も危ないって言ってた」
 そのくらいワイドショー好きの主婦なら知ってるわよ、と香山をいなす。
「では、こちらは?」
 ばらばらになった紙の切れ端をパズルのように並べた写真を佳代子の前に提示する。樋口が浅田から預かってきたものだ。
「これが、どうしたの?」
「今朝、あなたが捨てたゴミ袋から発見しました。消えかかってますが、デルタアルゼンブラックと英文字で記されているのが読み取れます」
「……」佳代子は無言で見つめている。
「デルタアルゼンブラック、別名亜ヒ酸パスタ。歯科治療で歯髄失活剤としてひと昔前まで使われていたそうですね。猛毒の亜ヒ酸を含んでいるためすでに製造中止になってますが、パート先の歯科医院で入手したんじゃありませんか?」
「あのね、主婦にはお菓子の箱とか袋とかを取っておく習性があるのよ。何かに使えるかもしれない、と思ってね。古い箱を捨てたからといって、中身も持っていたという証拠になるのかしら」
 巧妙に話の軸をすり替える。佳代子の話法だ。
「歯科医院から持ち出したのかどうかは、問い合わせればわかりますよ」
「じゃあ、好きなだけ問い合わせればいいじゃない」
 開き直っているのか、勝算があるのか、ひるむ気配もない。
「ここからは、ぼくの勝手な推理です。アルゼンブラックの最も安全な処分は、歯科医院に戻すことです。なぜ、そうしなかったのか。できなかった、と考えるのが妥当でしょう。柳一郎さんが遺体で発見されたため、パートは休まざるを得ない。葬式も済んでいないのに嫁がパート勤務するなんて非常識ですからね。それこそ近所で変な噂が立ちかねない。どこか他所よそで捨てればいいものを、なぜ自家ゴミに混ぜたのか」
 言葉を切って、香山は佳代子に焦点を据える。
「警察はヒ素中毒に気づいてない、と思いましたか?」
 佳代子は、すっと視線をそらせる。
「通常は事故で処理する案件です。最初は熱中症が原因の事故死だと思いましたからね。ところが、当然するはずの腐乱臭がしない。警官のものさしで測るな、と言いましたね。だが、刑事デカのものさしが警鐘を鳴らしたんです。この遺体はおかしいと――」
 佳代子を追い詰めようとコマを進めかけたときだ。
「ねえ、さっきからごちゃごちゃおっしゃってるけど。それって、私が義父を殺したって証拠になるの? 死因は吐瀉物による窒息死だったわね。ヒ素中毒による嘔吐だというなら、吐瀉物からヒ素は出たのかしら」
 わずかに残っていた吐瀉物からヒ素は検出できていない。佳代子が指摘するように、直接の死因をヒ素と結びつけるには無理がある。科捜研からの分析結果も浅田によると、急性ヒ素中毒にはほど遠いという。嘔吐は、慢性ヒ素中毒によるものか、熱中症によるものか科学的な判断はつけがたい。ヒ素を日常的に投与していた確実な証拠はない。和歌山毒物カレー事件では、67人が急性ヒ素中毒を発症し4人もの死者が出たからこそ、令状をとって下水管捜査も実行できた。アルゼンブラックの箱がゴミから出たくらいでは捜査令状は取れない。
 ここまでか。
 佳代子はやはり手強かった。ヒ素検出の証拠を見せれば、あわよくば自白か、何かぼろを出さないかともくろんだが。引っかかってもこなかった。焦りは見落としにつながる。仕切り直したほうがいいだろう。
 考えを整理していると、樋口が巨体を折り曲げながら入って来た。
「どうした、何かあったか」
「供述の裏がとれました」
 佳代子がぱっと顔をあげる。
「フードコート前で立ち話をしている姿を確認できました。時刻は16時42分から48分までです」
 ほら、という表情で佳代子が香山を見返す。
「17時8分までに桜台に行くことはできるが、柳一郎氏を自宅でピックアップすることは不可能だな」
 香山は佳代子に向き直り、立ち上がって頭を下げる。
「アリバイが確認できました。長時間のご協力ありがとうございました」
「そう、疑いが晴れて良かったわ」
 佳代子はなめるように取調室を見回し、肩が凝ったとでもいわんばかりに首を左右に揺らす。樋口が扉を開けて待つ。
 テレビドラマの影響か。主婦といえども捜査のことをよくわかっている。
 ひと筋縄ではいかぬ猫背の後ろ姿を見送り、香山は胸ポケットの煙草の箱をまさぐった。

(to be continued)
 

第19話に続く。


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