【ミステリー小説】腐心(20)
「浅田、いるか?」
三階のどん詰まりにある鑑識課の扉を開けると、機械音がうなっていた。排気設備を稼働させているのだろう。香山は奥の部屋の扉を開け、大声で浅田を呼んだ。
「ああ、カヤさん」と奥から顔を出し壁のスイッチを切る。轟音が止んだ。
「今朝のゴミか?」と顎をしゃくる。
「そっすわ。印をつけてくれてた袋でビンゴだったんで、作業はもう済みました」
室内には饐えた生ゴミの臭気がまだ微かに残っていた。それが仕事とはいえ、自分が頼んだことだけに、香山はぽりぽりと顎を掻く。悪いな、とつぶやいたが、聞こえていないのか、浅田はさっさと前室の机に証拠品の入ったトレーを置く。
「これか、ゴミから出たやつは」
ちぎれた紙片が黒いボードにジグソーパズル状に並べられている。
「解析はまだっすが、亜ヒ酸が付着しているかもしれません」
「なあ、亜ヒ酸パスタって、なんだ?」
「歯髄失活剤ってやつです。歯の神経を抜く治療で局所麻酔の使えない患者に、ひと昔前まで使ってたんすよ。とっくに製造中止になってます。どこで手に入れたんだか」
「次男の嫁の佳代子は歯科衛生士でパート勤務してる」
「歯科衛生士か。なら、こいつに亜ヒ酸が含まれてることも知ってますね。使いさしが忘れられて薬品庫の奥にでも転がってたんでしょう」
「とすると、在庫管理表も残ってねえか」
「かもしれませんな」
「窃盗で引っ張る手があるか、と思ったんだが」香山は唇を引き攣らせる。
「歯科医院側も薬事法に引っかかると困るから白を切られる可能性のほうが高いな」
勝算があったのだろう。佳代子の動じない態度が脳裡によみがえり、香山は舌打ちする。
「容疑者はゲロりましたか?」
「いや。箱をコレクションしてただけとぬかす。みえみえの詭弁さ。そんなことねぇだろって毒づきたいけどよ。否定するだけの物証もなぁ。慢性ヒ素中毒じゃ直接の死因にもなんねぇんだろ。ヒ素の線は手詰み、か」
浅田からナポレオンの腐らなかった遺体の話を聞いたときは、ヒ素が解決への糸口だと昂奮した。
「難しいでしょうな。食事に少しずつ混ぜてたなら、殺意はあったとは思いますよ。それがどの程度の殺意なのか。証明するのは至難でしょう。死期は早めたいが、それが絶対、今回じゃなきゃダメというのが見えてきませんからねえ」
そうなのだ。佳代子には少しずつ積もっている殺意があるはずだ。急性ヒ素中毒ならば殺人罪に問えるが、慢性の場合、癌を誘発したとしても、死因は癌であって佳代子が手を下した証明にはならない。嘔吐から誤嚥性肺炎につながり死に至ったとしても、その遠因がヒ素中毒とは、おそらく医師でも気づかないのではないか。明るみに出ることのない殺意。緩慢な死。着々と死期を早めながらも、疑われることのない悪意。芯から少しずつ腐っていく果実のようだ。腐りきる手前の熟柿がもっとも甘美だという。
やりきれねえ、と香山は内心で毒づく。
「まあ、けど慢性ヒ素中毒のおかげで死体が腐ってなかったんで、わかったこともありますがね」
「なんだ、それは」
香山は机越しに浅田に迫る。
「ガイ者の後頭部に直径3センチほどの打撲うっ血痕がありました」
「倒れたときに、後頭部を打った?」
「その可能性も高いんですが……」浅田が言いよどむ。
「なんだ。何が気になる?」
「いや、ちょっと想像してみてほしいンすよ。熱中症でふらふらして倒れるなら、まずはうずくまりませんかね。座った姿勢から倒れて、うっ血するほどの打撲痕ができるかな、と。倒れるなら、前か、あるいは何かにすがろうとして横向きか。いずれにしても先に手を衝くのが自然でしょう」
言われれば、と香山は自分におきかえてみる。頭がふらつけば、とりあえずはしゃがむ。だが、老人は自身の体調変化に気づきにくいとも聞く。立ったまま意識を失って倒れることも考えられないか。
「立ち姿勢から棒切れみたいに後ろに昏倒したにしては、後頭部が陥没してない。傷がどっちつかずで中途半端なんすわ。歯に繊維片も付着してたし」
香山の思考を見透かすように浅田が疑問を俎上にのせる。
「そうだ、その繊維片の件はどうなった?」
浅田は、しまった、という顔をする。
「すみません。まだ報告してなかったすね」
浅田は慌てて奥の部屋に引っ込む。
香山は窓のブラインドのすきまを軽く指で下げる。署の駐車場の隣にある平屋のドラッグストアの屋上が、強烈な陽射しを白く反射している。「一点に光を集中させると周りが霞む、気をつけろ」新人の頃に指導してくれた梨本警部補の言葉を思い出す。ヒ素にこだわっていては、陰にひそむものを見逃すか。
「お待たせしました」
浅田の声に振り返る。プラスチックのトレーを二つ長机に置いていた。
「これがガイ者の歯に挟まってた繊維片」
トレーの右端にあるチャック付き小袋を指す。
「で、こっちが現場から回収した繊維片で、一致しました」
香山は二つを左右の手で取り、目の前にかざす。いずれも1センチほどの白い糸に見える。
「タオルか?」
「おそらく。素材は綿で、表面がけばだってます。長さも同じくらいなんで、服の一部というよりパイル地の繊維と考えるのが妥当でしょう」
「現場にタオルはあったか?」
「いえ」
「誰かにタオルで口を押さえられた?」
「現場で回収した繊維の一本を科捜研に回してますが、DNA鑑定でガイ者の唾液の付着が明らかになれば、その線が濃厚に」
浅田は立ったまま机に両手をつき上目遣いに香山を見あげる。
「偶発的な事故ではなく、明らかな殺しか」
浅田にではなく、自身の脳に聞かせるように香山はつぶやく。
現場に柳一郎以外の第三者がいたのか? 柳一郎を送り届けたAは、車から降りずに走り去っている。柳一郎が桜台に到着した時刻、佳代子はウエステにいた。では、いったい誰が、誰がいたんだ。いや待てよ。佳代子は17時半に帰宅したと見せかけ、夜に桜台の現場に行ったという線もある。30日の17時半以降の防カメをもう一度確かめる必要がある。あるいは、Aと第三者の共犯? そう考えると玄関の鍵の件は解決するが――。
できあがりかけたパズルを、うっかり崩されたような虚脱感を覚えた。
「後頭部の打撲痕は、タオルで口を押さえられ、もみあった拍子についたと考えられるか。それが直接の死因の可能性は?」
「解剖してないんで正確なことは言えませんが。軽い打ち身程度ですから、可能性は薄いでしょう」
「死因は吐瀉物による窒息死じゃなく、タオルで口を塞いだ窒息死か?」
「いや、直接の死因が吐瀉物なのは変わりません。吐瀉物が気道を塞いでますから。絞殺痕も見られません。床に落ちてた繊維片から吐瀉物と同じ成分が検出されれば、口を塞いだため嘔吐したとの仮説も立証できそうですが。前歯に繊維片が引っかかってたんで、その線はないかと」
「なぜだ?」
「口を押さえられてタオルを噛んだってことでしょ。犯人は証拠隠滅のためタオルを持ち帰ろうとして、無理やり口から引き剥がした。つまり口は閉じていた。嘔吐するには、口は開く。犯人が立ち去った時点では、ガイ者はまだ生きていた可能性があります」
「死人に口なし、か」
香山は腕を組んでトレーに並んだビニール袋を凝視する。
何がどうなってるんだ。Aでも佳代子でもない第三者の犯人がいたとしても、これじゃあ過失致死止まりか。いや、未必の故意は問えるのか。第三者ってのは、誰だ?
「も一つ、不審な点が」
「なんだ」
「ガイ者のズボンに土が付着してました」
事件と直接関係があるかどうかわかりませんがね、と浅田は但し書きをつける。
「土?」また、何を言いだすんだこいつは。
「門から玄関まで歩く間に付いたんじゃねえのか」
「玄関までのアプローチの土とは成分が異なりました。同じ土はリビングの隅にも落ちてました」
「どういうことだ?」
「現場の土をいくつか採取したんですがね」
浅田は現場の見取り図を机に広げる。玄関までのアプローチ、アプローチ横、車道に面した生垣の下、庭の中央、リビングの前、勝手口の六箇所だ。
「で、同じ土はあったのか?」
「ここです。リビングの掃き出し窓の下」
「玄関から入る前に庭に回ったんじゃねえのか?」
「ガイ者の靴に付いてないのに?」
香山を試すように浅田が目を細める。
どういうことだ。靴に付いてない土が、なぜズボンに付いている。
「それと、ここの土だけが柔らかかった。他はガッチガチに干からびて固かったのに」
「新しい土を捨てた?」
浅田がうなずいている。誰が? 事件と関係があるのか?
靴に付着していた土と、ズボンの土は一致しなかった——てことは、ズボンの土は室内でついたか、あるいは木本家を出る前からズボンに付着していた? いや、それはねえか。柳一郎の自室はきれいに掃除されていた。むろん佳代子が証拠隠滅のために掃除した可能性はあるが。柳一郎の部屋に植物は置かれてなかった。
「室内の土は、遺体の近くにあったのか?」
「壁際です。まあ、埃や塵は隅にたまりがちなんで。我々が大人数で入室した際に風で隅に移動した、とも考えられますがね」
「どういう可能性が考えられる?」
「まあ、もっとも単純なのは、部屋に何かの植物があった。でも空家ですからねえ」
そうだ。仮に室内に観葉植物か何かがあったとして、なぜそれを処分しなければいけなかったんだ。謎のピースがまた一つ増えやがった。
(to be continued)
第21話に続く。
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