愛は犬のごとし。
「愛は犬のごとく、恋は猫のごとし。なあんてな」
低いバリトンが照れ、あわてて缶ビールを呷る。
プシュッ。
リュウジはまたひと缶開ける。傾きかけた日がベランダから長く腕を伸ばし、冷えた缶にまとわりつく水滴をちらちらと輝かせる。
あたしがふらりと帰ってきても、どこに出かけていたのかとリュウジは問わない。ちょっと掠れぎみの錆びた声で「おかえり」といって、ほんの少しだけ目じりを下げる。微笑みとはちがう、穏やかな笑み。あたしはリュウジの筋肉質の膝に頭をのせる。リュウジは片手に缶ビールを持ったまま、左手であたしの頭をゆっくりとなでる。それだけで、喉のあたりがうずうずしてほおっと力が抜ける。
あたしの気まぐれを受けとめて「おかえり」と待っていてくれる、リュウジのそれは愛なのだと思う。大きくて広くて果てのない海のような愛。絶えることなく繰り返す潮騒のように、あたしをなでて慈しんでくれる愛。狂おしい熱情ではなく、穏やかで平凡な満ちたりを与えてくれる愛。リュウジは犬みたいだと思っていた。
そんなリュウジがある日、姿を消した。
あたしはいつものように、街をぶらぶらとほっつき歩いて朝帰りをした。まだ陽はのぼっていなかったが、ビルの向こうの空はうっすらと白く輝きはじめていた。けれども、カーテンの引かれた室内はうす暗かった。いつもならリュウジはとっくに起きて、コーヒーメーカーをセットしている時間だ。
まだ寝ているのかしら珍しい。寝室のドアをそっと開ける。
ベッドには、人が寝たけはいすらなかった。
出張だろうか。気にも留めなかった。
だが、リュウジは帰って来なかった。
リュウジがいなくなって5日目の昼に、玄関を開ける鍵の音がした。
――帰ってきた!
あたしは喜びで足がもつれながらダッシュした。リュウジの胸に飛びこむつもりで。
けれど、玄関に立っていたのは、あの女だった。
リュウジがアヤと呼んでいた。
あたしは、いやな予感がして後ずさる。リビングに戻ろうとした背を抱きしめられた。逃れようと暴れるあたしをきつくきつく抱きしめながら、
「リュウジが、リュウジが……」
ぽろぽろとあたしの背を涙がつたう。
あの日、帰宅途中の路上でリュウジは倒れた。その日は仕事が立て込んでいて、昼食もとれず、インシュリンを打つことも忘れていたそうだ。
インシュリンって何?って思ったけれど。アヤはかまわずに話す。
「病院に運びこまれたときには、もう、意識がなかったの」
今朝、息を引き取ったのだと切れ切れにいうと、カーテンの閉まったままのうす暗いリビングで号泣した。
「愛は犬のごとく、恋は猫のごとし」なんていうから。リュウジは犬みたいなやつだと思ってた。
けど。
犬じゃなくて猫だったんだ。死に際を見せずに、あたしの前から消えた。
「ねえ、これからは、わたしといっしょに暮らそう」
アヤがあたしの喉をなでながらいう。
にゃあお。
しかたがないから、イエスの返事をしてやったよ。
リュウジが愛した女の膝に頭をこすりつけ、尻尾で床をなでながら。
<了>
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