掌編小説『グリフィンの石』
エルパライソ山は天に突き刺すように聳える霊峰だ。
鏃のごとく鋭く巨大な岩が幾重にもつらなり、旅人の行くてを遮って、人を寄せつけない。
創世記神話によると、世界を征する力を宿すといわれる「天輝石」をめぐって、争いを続ける人間たちに激怒したアマル神が、天輝石ごと大地を持ち上げ聳える針山としたのだと。それでもなお、天輝石を求める者たちが後を絶たなかったが、たいていは大理石の山肌を滑落して果てた。あえて雪に覆われる冬山に登るつわものもいたが、周囲に遮るもののない孤峰のため、雪嵐に視界を遮断されクレバスに落ちるか、雪崩に浚われた。
以来三千年、エルパライソ山の頂上にたどり着いた人間はいない。
グゥアダルは、エルパライソ山の頂上にある洞穴の前で3千年間、天輝石を護り続けているグリフィンだ。鷲の翼と鋭い嘴に、獅子の足をもつ。
「神はいつになったら朕を解放してくださるおつもりなのか」
ときどき呟いてみるが、もう、それすらも、どうでもいいことのように思えた。永遠を生きるグリフィンにとっても、三千年の時は長かった。
グゥアダルは、かつてアマル神の麾下にあって、直属の天軍を率いていた四将軍の一頭であった。
カツーン、カツーン。
何かが岩を叩く音が、静寂の峰に響く。
グゥアダルは、とうとう幻聴を聴くようになったかと思った。ここ千年、天空で叫ぶ風と、南へと渡る鳥の鳴き声や、猛禽類が風を切る翼の音しか耳にしたことがなかったはずだ。
カツーン、カツーン。
また、高い金属音が響いた。グゥアダルは警戒を強め、耳を澄ます。すると、なんと、洞穴前の崖に人の指先が掛けられたではないか。グゥアダルは、睨みつけるだけで百人の兵士を硬直させるといわれる、その鋭い眼をかっと見開いた。
すぐにもう一方の手も崖の縁を掴んだかと思うと、突如、ぬっと人の頭が現われた。グゥアダルは翼を広げて威嚇の体勢をとる。
両の腕に渾身の力を込めて持ち上げられた銀髪はそのまま、洞穴前の大きなテーブル状の一枚岩の上にダイブした。
ふ――っと、長く大きく息をついた後頭部がぱっと顔をあげた。
「うわぁ。ほんとうにグリフィンがいた!」
上昇気流に銀の髪をなびかせ、腰にハーネスをつけた青年が、瞳を輝かせてグゥアダルを見る。今にも飛びつかんばかりだ。
グゥアダルの方が、一瞬、たじろぐ。
「人の子よ。性懲りもなく天輝石を奪いに来たか。ここまでたどり着いた、その勇気は認めてやろう。だが、残念ながら、我から奪うことは叶わん!」
グゥアダルはその雄々しく美しい翼を広げ、獅子の後ろ足で屹立した。立ちあがれば、身の丈は三メートルを超える。辺りはグゥアダルの翼の影で暗くなった。
「貴様の喉首を引きちぎってやる」
グゥアダルが戦闘態勢をとると、かつて人は皆、震えあがり、天界の生きものたちは一様にひれ伏した。グゥアダルは我が勇姿にどれほど怯えているかと期待しながら、銀髪の青年を見下ろす。
すると、あろうことか、目の前の青年はにこにこしているではないか。
――なぜだ。脅しが足りなかったか。
グゥアダルは全身の羽根を逆立て、翼をばっさばっさとはためかせる。強風が巻き起こる。
青年は腰にぶら下げたペグを一本取り、テーブル岩に突き立て、グゥアダルの起こす風に飛ばされないよう、身を低くしてペグを掴む。
「ぼくはね、生物学者で。キサマという名じゃなくて、ルスっていうんだ。天輝石を採りに来たんじゃないよ。そんな石はどうでもいい」
――どうでもいい? どういうことだ。
グゥアダルは混乱した。世界を征する石を求めて、断崖絶壁を登って来たのではないのか。
「それより、君の名は何ていうの?」
「グゥアダル」
あまりに邪気のない問いかけに、グゥアダルは威厳を保つことも忘れて答えてしまった。
「グゥアダルか。いい名だね。ぼくは神獣の研究をしているんだ。これまでにドラゴンやフェニックス、ユニコーンの生態を調べてきた。それでね。ヴェルデ島のドラゴンから、エルパライソ山の頂上にグリフィンがいるかもしれない、と聞いたのさ」
――あの、おしゃべりドラゴンたちめ。
「それで、貴様は‥」
「キサマじゃないよ、ルスっていうんだよ」
ルスはにこにこしながらグゥアダルを見つめている。その屈託のない笑顔の前では、威嚇体勢を取っている自分が滑稽になる。
翼を畳んで、グゥアダルは咳払いする。
「ルス、お前は何が欲しくて、ここに来たのだ。我を生け捕りに来たのか」
「君に会ってみたかったんだ。グリフィンのことが知りたかったんだよ。地上にいたグリフィンたちは、みんな、大昔に天界に帰ってしまって。残念なことに記録が残っていないんだ」
「今、何と言った」
「だからね。グリフィンの記録が残ってないんだ。それだけじゃないよ。天輝石の記録もない。ぼくもドラゴンに聞いてはじめて知ったくらいさ。人間は相変わらず愚かだからね。ずっと争いを繰り返してきた。その戦火に古い記録の大半は燃えてしまった。エルパライソ山の頂上に天輝石があることも。その石には世界を征する力があることも。グリフィンが護っていることも。もう、誰も覚えていない。伝承すらも忘れ去られてしまってる」
何ということだ。兄弟も、部下も、もう下界にはおらず、将軍である我ひとりが三千年ここで天輝石を護ってきたのか。
グゥアダルは愕然とした。
――神は、我をお忘れなのか。
「ルス、お前は、我の何を知りたいのだ」
「体長は何メートルか。翼長はいくらか。主食は何か。昼行性か夜行性か。時速何マイルで飛ぶのか。子孫はどうやって増やすのか。どんな環境を好むのか。そんな生物学的なことだよ」
「そんなことを知って、何とする?」
「一つはね、記録に残したいんだ。かつて地上にもグリフィンやドラゴンなど天界の神獣たちが、神話でも伝説でもなく本当にいたことを、後世の人たちに伝えたい。そして、なぜ地上から神獣がいなくなったのかを考えてほしいんだ」
「もう一つは。希望なんだけどね。神獣が住める環境を整えることができて、地上にまた来てくれるといいな、と。おそらく、ぼくの代では無理だろうけど。いつかそんな未来が訪れれば嬉しいじゃない。それだけだよ」
それだけのために、人跡未踏の断崖絶壁を登って来たというのか。それは、自らの命を賭けるほどのことなのか。
ルスは、ぱんぱんと膝の砂をはらって立ちあがると、グゥアダルに一歩近づく。グゥアダルの方が、後ずさりする。ルスが右手をまっすぐにグゥアダルに向かってさしだす。
「グゥアダル、ぼくは君を解放しに来たんだ」
「誰も奪いに来ない天輝石を護っている意味は、もう、ないだろ。三千年も君は神の命令に誠実に従い、その勤めを果たした。十分じゃないか」
ルスが、また一歩、グゥアダルに近づく。
「神ではなく、ルス、お前が、我を解放するというのか」
「どうやって、どうやって、我を!」
グゥアダルが雄叫びをあげた瞬間、洞穴からエメラルド色の閃光が天に向かって飛びたち、グゥアダルの頭上、数マイルのところで鋭角に折れ曲がり、ルスに向かって直進した。光はルスの胸に飛び込み、まばゆい緑の光が辺りを覆う。グゥアダルですら、一瞬、視界を失った。
「ルス。おい、ルス、大丈夫か!」
しだいに光が力をやわらげると、その中心でルスが尻もちをついている姿が露わになった。胸が緑に輝いている。
グゥアダルは、すべてを悟った。天輝石は、緑の光となってルスの胸に入った。ルスは知恵と勇気の限りを尽くして、この人を寄せ付けぬ絶壁の峰を踏破した。その偉業を成し遂げても、力の石など要らぬと言う。その曇りなき目は世界の未来を見ている。すなわちそれは、世界を征するということに他ならぬ。
我は、知恵と勇気の守護神だ。我が3千年間護ってきたのは、「知恵と勇気」の石だったのか。ルスこそが、それだ。
「乗れ」
グゥアダルがルスに背を向ける。
「それは嬉しいけど。いいの?」
「下界まで送ろう。我は、ルス、お前と共に生きよう。そしてお前の夢に力を貸そう」
「えっ、本当に? 天界に帰らなくていいの?」
ルスは、グゥアダルの背に跨り、その首につかまりながら尋ねる。
「ああ。天輝石は、お前の中にある。我は天輝石を護るものであり、知恵と勇気の守護神だ」
「ルス、お前という光を護るよ」
グゥアダルは、エルパライソ山の峰の上空を旋回する。天の高い一画が、グゥアダルの決意にうなずくようにきらりと光った。結局、神はすべてをお見通しだったということか。
「しっかり、つかまっていろよ」
グゥアダルは光を背負って、地上へと舞い降りた。
(The End)
* * * * *
橘鶫さんの、こちらの企画に参加させていただきました。
私は鶫さんが綴られている、壮大なサーガのような『物語の欠片』の大ファンです。鶫さんのすばらしいグリフィンの絵に物語を添えられるなんて!
なんて素敵な企画なんでしょう。鶫さん、ありがとうございます。
もう、すでにたくさんの秀作が、こちらのマガジンに収められています。
https://note.com/tsugumitachibana/m/m388cac6d2e76