燃え盛る炎のフォルムで_2023/5/17
岸本佐知子さんの軽妙な文体で訳された、アリ・スミスの『五月』という短編を読んだ。
短編なのであらすじ≒本筋となってしまい、私の拙い解説により物語の本質的な良さを損なってしまうのは不本意なので、内容にはほとんど触れないことにする。レビューを期待していた皆さん、すみません。
しかし全く触れないとただの報告文になってしまうので簡単に説明すると、『近所に植えられている木に身も世もなく慕情を抱いてしまう話』である。「木に姿を変えてしまった人に恋をしていた」みたいな神話的な話とは空気感が全く異なる。何というか、真っ直ぐにデンドロフィリックである。
樹木信仰の傾向は世界中どこでも見られる。日本でも“御神木”という言葉があるくらいだ。しかし植物を恋愛対象あるいは性的対象としてみるような文化及びフィクションは、動物のそれと比べてあまり多くないような気がする。私の知識が浅いだけだろうか。犬や猫、鼠の擬人化は枚挙に暇がないほどポピュラーである。狐が美女に化ける話は古くから存在する。現代は、競馬馬が女の子になる時代である。血球ですらイケメンになったり幼女になったりする。しかし、植物はどうだろう。
テレビを観ないので詳細を知らないのだが、いま牧野富太郎をモデルにしたドラマがやっているそうな。彼はひょっとすると植物をそういう目でみることもできた人間かもしれない。近年だと(もう近年とも言えないのかもしれないけど)、市川春子さんの短編『星の恋人』が植物愛に近い概念を美しく表していて感嘆した記憶がある。ただあれは単純なデンドロフィリアとはまた少し違った話かもしれない。いずれにせよ、漫画だから誰でも読みやすいだろうし、ぜひ若者に触れてほしい作品のひとつである。
私の愛してやまない作家・澁澤龍彦も『愛の植物学』というエッセイを執筆しておりこれがまた素晴らしい。寝る前に枕元で読むのが良い。
私はあまり人の多くない場所に住んでいるので木々が生い茂る景色を日常的に目にしているが、日本の場合、“都会”と呼ばれる場所にも、意外とそこらじゅうに木が植えられている。それを意識することがないのは、それらがひとりでには動かず、ものも言わず、目を惹かない色をして、ただ佇んでいるからである。植物は基本的に、限りなく受動的である。
そんな木々も、ウラではちゃっかりと、芽吹き、育ち、実らせ、産み、芽吹き、…を繰り返している。とんだむっつりさんなのである。むっつりさんだから趣があるのであって、スギやヒノキなんかは本当にダメですね。あいつら青空のもとで平気で自慰して、空気中に自分らの精子ばら撒きやがって、それで我々のアレルギー反応が惹起されてるんだからたまったもんじゃない。花粉症は、言い換えれば『植物精子アレルギー症候群』である。顔射テロ、許すまじ許すまじ。
稀にだが植物愛を扱った作品が生まれるのは、もちろん花の単純な美しさによるところも大いにあるだろうが、もっと根本的な理由として、その受動性にあると思う。矢印が互いに互いを向いているような情熱的な愛ももちろん素晴らしいと思うが、一方的な愛を注ぎつつもその対象は不変である、という状況の、悲しくも安らかな気持ちが愛につながることがあるのではないか。今風に言えば、抱き枕とかフィギュアとかを買う人に似た心理がある気がする。どれだけ愛をぶつけても、変わらずいてくれる。ただ、これを愛と呼ぶかどうかは各人の価値観次第だろう。
これだけ聞くと、植物愛とは『自分の行いに対し相手の能動的な施しを求めない、無償の愛』と捉えることもできるかもしれないが、私はどちらかといえば『自分の愛のみを表出できさえすれば満足するような、幼くも根源的なエゴイスティックな愛』というイメージが強い。人間以外のものにも愛を与えられるのは殊勝なことだが、『自分以外のものを中心とした愛』は、やはり人間へ与える愛でしか育めなさそうである。
自分と他人のバランスを取るのは、どんな場面でも難しいものだ。
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