1/11 観察部(小島)
先日、ひとりでできるもんサークルCチームの観察部の集まりを初めて行いました。
初めに、説明があり、漫画や映画や、絵をそれぞれ持ち寄って、観察してみるという時間でした。
私は、以下のページに載っている
元永定正という人の「無題」
という絵を、観察したいものとして持っていきました。
具体的なもの、ことに戻って、そこから印象を語る。煙ではなく、火を見るということが大事だと話されていました。
私がこの絵を持っていったのは、なぜこの絵が良いのか?全く分からなかったからでした。それを持っていった時に、他の人はどんなふうに見えるんだろう。どんな評価を下すんだろうというのが興味があったのです。
けれど、はっきりと私は、この絵に対して、何が良いのかを指摘することができませんでした。ここに無いものを指摘できるのに、ここにあるものを指摘できないのです。
そこにもがきながら、私はいつか受けた授業のテクスト論みたいだなと感じていました。テクスト論の考え方では、そこに実際に書かれているものだけを見る、それを言葉にすることが求められるとその授業では語られていました。
あぁ、私はこの絵に対して、そこに実際に描かれているものを指摘することが出来ないんだと思いながら、無理やり言葉を絞り出すうち。途中から何だか悲しくなってきたのです。
それは、私が最初なにも興味が無い。理解できないからこそ、理解したいと思っていた絵に対して、自分なりに第一印象では「惹かれるもの」があったという気づきでした。
と共に、私はその「惹かれるもの」を言葉にすることが出来ないのです。「色がいいと思う」という言葉にすると、言葉にしながら「色がいい」という言葉の中に含まれなかった私の第一印象、その魅力が手からこぼれ落ちて行く気がしました。
無理やり言葉にしようとして、その困難を知るなかで、私はいつの間にか、その興味がなかった絵への愛着や、そこに含まれる私に言い表せない美しさに取り憑かれていきました。
観察部を経た今、言葉にできなかったモヤモヤと、その時に感じた取り憑かれたような不思議な感覚だけが残っています。
私は、それぞれの異なる見方が口論にならないために、「こと」「もの」に戻る必要を説かれたことを今でも反芻します。
それと共に、その時ダメな例だとして挙げられた、映画の魅力を語りながら自分の思い出の話をしていた人の話を思い出して、また腑に落ちない気持ちになるのです。
別に、その映画から何を感じても、何に惹かれて言葉にしてもいいじゃないかと。その「こと」「もの」にせまることが、「写実」だとするならば、「印象派」的な、果てはルソーのような世界の見え方があったっていいじゃないかと。
その上手くパクろう、上手く「こと」「もの」に戻れない中でのもがき苦しみが、新たな創造に繋がることもあると思うのです。
私は言葉にするのが下手だねと言われました。そのことがずっと喉の奥に刺さった骨のように引っかかっています。あぁ、きっと私はあるがままの「こと」「もの」を見たいのではないのです。そこに解決策を見いだしているのではなく、「妄想」や「共感」に解決策や楽しみを見いだしているのです。
けれど、独りよがりな自分の考えは、きっと争いになってしまう。それぞれの思い込みや、感情、感じ方をもっともっと尊重しながら、妥協できる道を探したいと思い、1人悩んでいます。それに改めて気づく観察部でした。
なんだか、毎度毎度同じような感想を書いているような気がしています。私の思考は同じところでくるくると回っているのでしょうか。