なぜかキッドナップ・ツアーを思い出している(矢代)
〇振り返り
(a) いろんな手触り、大きさの紙や、マジックペン、ボールペ ン、えんぴつ、カラーペンで書いた。選べると、このペンでこの紙に書きたい、みたいな欲が生まれて不思議だった。
(b) 「これを読んでください」みたいなメモが渡されることもあったけど、こういうふうにしてくださいっていう口頭でのディレクションが多かった。どちらにせよみんなで意味のわからないところにダイブしていく感じがあった。誰も知らないアトラクションに乗るみたいな。
(c) 手塚さんのwsのときもあったけど、みんなで一緒にいるのにばらばらに作業しているのっておもしろい 顔をあげるとみんなそれぞれに取り組んでいて、そこにいない人も立ってる人も飲んでる人も食べてる人もいた。授業中に終わらなかった作文を休み時間にやっていたら、まだやっている人も立っている人も移動教室にもう行ってる人もいる感じを思い出した。
(d) 「再演」はゲームみたいな感じだった。たのしいのもあったしこわいのもあった。たのしいのは、再演の前から、居合わせて観察していたときから楽しげなものもあったけど、もとの話自体は不穏だったりこわそうだったりしたものまでも「再演」したらたのしくなっていた。それは、後から思うとちょっとこわい。
だってそれは、再現できるコミュニケーションの型ややり方自体が怖いのではなくて、そこにいたその人が怖くさせていた、ということで、個性と呼ばれるようなものが怖くさせていたんだったら、その人を否定しないで怖くなくさせることはできないということになってしまう、という事実は、結構救いがない。
でも逆に、楽しもうとしたらどんなこともこわくはならないということかもしれない。
〇感想
移動しているみんなを見ていたら、ひとりなのにみんなだ!と思った。ひとりなのは、「共同体を運営するための(たまに不自然なまでの)互いに対する興味」みたいなものを持とうとしてないから一人っていう意味だと思う。
それがいつの間にかみんなになっていた気がする。他人に決められた集団でだんだんと他人に興味をもつ自然な過程、みたいなものを辿った気がする。これって、高校のクラス決め以降なかったものなんじゃないかなって思う。
一緒に楽しがったり怖がったり面白がったりしている間に、サークルでグルーヴ(同じ音楽?同じ間の呼吸?)を共有している気がする。
そこにいた人にしかわからない炭酸の音とかサイゼリアとか三択クイズとか昔話とか絵しりとりとか、そういうものが少しでも長く私以外の人の頭にもあるといいなと思った。