バーに行った時の話
下北沢のバーに行った。(いつも小田急線と京王線がどっちか分からなくなるから誰か迷わない方法を教えてください)
かなり狭いバーで、お風呂場くらいのスペースに7,8人がぎっしり詰まって飲んだ。人口密度は高いけれど、ビニールの透明なカーテンで外と仕切られているだけなので、そんなに息苦しい感じはしない。いつも誰かの笑い声が響いていて、にぎやかで楽しかった。ショートカットの店主の女性は、世界中を旅したことがあって、ペルーに行った時の話を聞かせてくれた。私も早く色々な国に行きたい。
自分からバーに行ったのに、私は全然お酒が飲めない。前はノンアルコールビールで酔っ払ってしまった。だからたいがい、ワインをソーダで限界まで薄めたものしか飲まない。その日も似たような感じで、「甘くてそんなに強くなくて炭酸で割ったやつ」と注文した。
そのバーのトイレは和式で、店の外にあり、近隣の店舗との共用だった。そして防犯のためか毎回施錠しなくてはならず、鍵には木製のでっかい札がまるでホテルのルームキーのようにくっつけられている。酔っ払った客がよく鍵を無くして困るからどんどん札が巨大になったのだと教わった。私も寒い中1人で外に出て、トイレに入った。酔っ払っていて足もとがおぼつかず、ふらふらしながら用を足して、水を流すとき、うっかりトイレに落っこちてしまった。掴むところも無かったのでそのまま暗い中を滑り落ちた。不思議とさほど怖くなく、死んだおばあちゃんの声が聞こえた。それで、気づいたら2軒目のバーに着いていた。
その店の中はとても暗く、カウンターに沿って椅子が等間隔に並べられていた。ハンバートハンバートの曲が小さく流れていて、さっきの店よりすごく静かだった。目が慣れてくると、隣に喧嘩して随分連絡をとっていなかったみさきが座っているのに気が付いた。そして、その隣には高校の時付き合っていた田島くんがいて、その隣の隣には小学生の頃ピアノを習った山内先生がいた。みんなずっと会いたかった人だから、ひとりひとりに握手して「ずっと会いたかったんだよ」と言って回った。山内先生の膝の上には飼い猫のたまがいた。たまは白猫で、水色の丸い目をしている。でもたまはよく見たら昔のたまではなくなっていて、山内先生はその猫を「しろ」と呼んだ。なぜたまはいないのかと聞くと、たまなんて知らない、そんな猫は飼ったことがないと言われた。たまは私に懐いていたし、仲が良かったから残念だった。あと、みさきは街コンで出会った人と結婚して、もう2歳になる娘までいる。久しぶりにオールでカラオケしようと言ったら、今は子供が小さいから無理だと申し訳なさそうに言われた。田島君は、新卒で不動産会社の営業職に着いたらしい。給料が良いと自慢していたけれど、少し痩せたから結構大変なのだと思う。高校の頃は制服のシャツがズボンからちょっとだけはみ出していることが多くて心配になったけど、こっそり確認したらもう全然はみ出していなかった。笑顔でその場を後にしたのに、みんな幸せそうで満ち足りていて、いつものように勝手に取り残されてしまった。
店の外に出ると、おじさんがベンチに座って煙草を吸っていた。まだ2月だというのに、半袖の肌着1枚にステテコパンツという格好で、異様なオーラを漂わせている。おじさんは殺気立ち、血走った目をぎょろぎょろと動かしながら考え事をしているようだった。そんな姿に一瞬たじろいだが、何か言いたげなので、おじさんの向かいのベンチに座ってじっと待った。1分…2分…3分と時が流れ、5分が経過した。もうそろそろ帰ろうかと思ったとき、おじさんがふわっと口を開いた。「お前、ラッキーだったな。おい。そう。お前だよお前。俺が寒そうな格好をしているからって変な奴だと思わないでくれ。何かを捨てて、何かを得るんだ。寒い時に厚着をしたら、暖房が効いた部屋に入ったときに汗かくだろ。仕方ねえ。あいつらだって全員命がけだ。だけど気付かないだけで、お前自身もどんどん変わってるんじゃねえか。新しい新芽が山ほど出てる。……何?新しい新芽は文法的におかしい?……しゃらくせえ!黙ってろ。なあ。本当は分かってるんだろ?咲いた花に一生懸命水をやれ。それで大きな花束を作れ。……俺?俺は成長なんてしたことないさ。俺は70年間、ずっとここで煙草を吸ってる。そのうちヤニででっけえ城を建てる予定だ。その時にはよ、お前、見たこともねえような盛大な祭りをやるからぜひ来てくれよな。な、さっきお前がラッキーだと言ったのはそういうワケだ。招待してやるんだから少しは感謝しろ。だからその代わり、その日になるまで俺のこと、決して忘れるんじゃねえ」そこまで言い終えておじさんは、初めて少し笑った。
中野