プロダクトマネージャーとしてのキャリアのお話
「松栄さんは、今後のキャリアをどう考えているんですか?」
採用系の面談やプロダクトマネージャー(PM)のお悩み相談を受ける場でよくこの質問をされる。私は今30代後半で、PMとして仕事をし、かつPMチームのマネージャーもしている。みんな、PMのキャリアをどうしていけばいいか悩んでいるなぁとよく思う。
実際にお会いした方には素直に話しているのだけれど、会える人に限りがあるので、もっと多くの人の何かのヒントになればいいなと思い、ここに書いてみようと思う。
キャリアの話はどうしても、これまでの変遷が軸になるので、私のこれまでの話から(長くなってごめんなさい)。
キャリアがめちゃくちゃな状態で入ったリブセンス
私はもともと紙媒体のデザイナー兼ライターとして社会人キャリアをスタートさせている。ただデザイナーとして才能がないというかセンスがないというか、全くダメだったので1年半でWebマーケティングに異動になった。
ハードワークから持病を悪化させ、実家の大阪に帰ったが、職探しがうまくいかず、Web系じゃない会社の商品企画と広報をやる仕事についた。けれどこれもまたうまくいかずすぐ辞めてしまい、東京に戻ってきた。
経験職種がバラバラで、一つ一つの職歴が短く、ブランクの期間もあったため、リブセンスを受けた時の私の職務経歴書は散々だったと思う(本当によく書類選考を通してくれたなと)。そして事業企画として、当時正社員がまだ20人程度のリブセンスに入社した。
何でも屋からディレクターへ
当時のリブセンスはカオスで、事業企画は何でも屋だった。電話営業をして、既存サイトの企画をして、集客のためバナーやメルマガも作れば、初めてのTVCMをするためにキャラクターを作ったり代理店と会ったりもして。
広く浅くでぐちゃぐちゃなキャリアしか築けず、マイナスにとらえていたが、今プロダクトマネージャーとして見ると、リブセンス前も含め全ての経験はよかったかもなと思っている。20代のうちにデザイナー、マーケター、広報、営業、企画など多様な職種を少しずつ経験したので、幅広い知識を得、様々な職種の目線や気持ちが少しわかるようになった。
また私が運が良かったのは、私にWebサイトとは何ぞやを教えてくれる同僚に恵まれたことだ。2人の師匠に教えてもらいながら、サイトをあーだこーだ相談して考えて作って改善して、とやっているうちに、私はWebディレクターっぽい仕事を中心にするようになっていった。
転機になった新規事業立ち上げ
新規事業やりたい!と言っていたら、社長直轄の新規事業にアサインしてもらえた。外部企業との提携で進めるもので、外部交渉という付加要素もあった。初めてサービスをゼロから作れることに心を踊らせたが、思った以上に泥臭くしんどいことが山盛りで、すぐに浮かれてはいられなくなった。ずっと深い泥沼で重い足を引きずりながら歩いているような感覚だった。
ただここで、サービスを作るって、チームを作るって、お金を稼ぐってなんて難しいんだろうをいっぺんに学んだ。そして、収拾がつかないめんどくさいことを何とかまとめて前に進める力が身についた。メンタルがゴリゴリ削れたが、私の成長という意味では大きな転機になったと思う。
実はこの途中から第一子を妊娠していたため、何度か自宅絶対安静になった。もっとやりたい気持ちと、子を守りたい気持ちと、みんなに迷惑かけて申し訳ない気持ちと、いろんな感情が入り混ざって家で何度も夫に泣きついた。これも、いち働く親として、大事なことを学んだと思う。
本当に泥だらけになって這いつくばりながらやっていた新規事業だが、上手くいかずに結局撤退となった。撤退決定とほぼ同時期に私は育休に入った。
時短勤務で新規事業立ち上げをリードする
育休復帰後、また新規事業へ。前回の失敗の学びを活かし、初めからかなりディスカッション(という名の半ばケンカも含む)を繰り返した。相変わらずの生みの苦しみだったが、一度経験したものは前回より上手くやれるもので、この新規事業はそれなりに上手くいき「転職ドラフト」というサービスとなった。
この時、私は16時半に帰る時短勤務。全社で2人目の育休復帰者で、開発チームに時短勤務者がいることは初。数人での新規事業立ち上げにおけるプロダクトマネージャーの仕事量は膨大で、どうやったらいいか誰もわからない。
私がいない時間でもチームのみんなが止まらず動け、良いものを作るにはどうすればいいか。たくさんのことをトライした。
・情報を最大限オープンにし、私しか知らない情報をなくした
・チームの行動指針や価値観を相談して定めた
・チーム全員の得意不得意、やりたいやりたくない、評価その他もろもろをすべて共有し、自律的に協力しやすくした
・私の判断基準や考え方を積極的に話し、私がいないときでも「ばえさんはきっとこう考えるだろう」を予想できるようにした
・できるかぎり裁量と責任をチームメンバーに渡し、何か起きたら貰い受けるという体制にした
まだまだ細かい工夫はたくさんあるが、ここで、自律的なチームとは何か、マネジメントとは何か、などを勉強し、学んだなと思う。
経営層まで上がれる気がしない壁
転職ドラフトで一定の成果をあげ、古株ゆえに社内でもそれなりのポジションにはいたが、いつか経営メンバーに私が入るイメージは全くなかった。そこには大きな壁がある気がした。
それはおそらく性別とかそういうものではなく、私に何かが欠けているのだろうと思った。そしてその欠けているものは何かわからないけれど、このままリブセンスでプロダクトマネージャーをしていても得られない気がした。それなりのポジションにいることは、完全なる井の中の蛙だ。
そんな悩みを抱えながら、私は第二子の育休に入った。
会社立ち上げという新しい挑戦
育休復帰を考える時期に、たまたま知人から、会社を立ち上げるんだけど一緒にやらないかという話をもらった。XTechグループの中での会社立ち上げだった。
子育てしながら働く親の負を解消するというミッションに共感し、また自分に欠けているものも会社立ち上げをやることで何か見える気がして、設立から執行役員としてXTalentにJOINした。2人育児のかたわら初めての会社立ち上げをしようとするあたり、私はいつも無謀だなと思うw
人材紹介からスタートしてその後プロダクトを作る、という構想で始め、立ち上がり数ヶ月は悪くなかったが、コロナが起きた。業績に直撃した。ここでは書けないハードシングスが多々起きた。
人を雇い、会社として成り立たせ、成長していくのはなんと重く、難しいことなのかと学んだ。企業内で新規事業をやり、調子に乗っていた自分を殴りたくなった。会社に守られ、資金も良い仲間も用意してもらい、本当にぬくぬく、ぬくぬくやっていたのだ。たくさんの人の血の滲むような努力の賜物の上で傲慢に踊っていただけだった。前職に対して、申し訳ない気持ちと、心からの感謝の気持ちを抱いた。
そして、私に欠けていたものは、これだったんだなと思った。
起業家になるか、プロダクトマネージャーに戻るか
もろもろ事情もあり、XTalentを退職することになったが、次どうしようかと素直に迷った。XTalentではいわゆるプロダクトマネージャーの仕事はほぼしておらず、経営メンバーだった。
様々な方とお話をさせてもらい「起業するなら応援するよ!」というお声もいくつかいただいたが、考えて考えた結果、私はプロダクトマネージャーに戻ることにした。理由は「プロダクトのことを考えているのが一番楽しい」と思ったこと、自分が社会に対して一番役立てることはプロダクトを作ることだろうなと思ったことだ。
地位が欲しいとか、有名になりたいとか、多くの人に賞賛されたいとか、そういうのは自分の中には特にないんだなと気づいた。
選んだ次の場所はhey
どこでプロダクトマネージャーになるかだが、様々な会社とお話させてもらって、最終heyに決めた。理由はいくつかあるのだが、一番は、会社の考え方が自分と近く、心の曇りなく打ち込めると思ったからだ。
突然だが、私はテクノロジーやインターネットが好きだ。ある特定の、お金や権利を持っている人しか得られなかった機会や知識など様々な事柄を、多くの人が得られやすいようにできる力がある。
私は先天性の病気があり、学生時代少し不自由な生活を何年もし、大きな手術もした。生まれた環境や状態によって、努力だけではどうにもならない違いが発生することがあり、それは心に大きな闇を落とすことも知った。
私の場合は身体の問題だったが、経済的な理由でも、場所でも、人間的な関わりでも、本当に様々なもので違いは発生する。
そして、今インターネットという場面でもこの違いがあるなと感じている。生まれ、生きてきた環境がインターネットに近かったかどうかで、有益なものにも、よくわからなくて怖いものにもなっている。ちょっと悲しい。
heyは、想いを持つ人が、特権やお金を持っていなくても、挑戦できる仕組みを作ろうとしている。挑戦のハードルを下げ、想いを実現させるために何かを犠牲にしなければいけないお商売起業のあり方を変えようとしている。私はheyのそういうところが好きだ。
(もしheyに興味があれば、pmconf2021にCPOとVPoPが出るので見てね)
ちなみに蛇足だが、私は日本CPO協会の理事もしている。そもそも私はCPOではないし明らかに他の理事たちに比べればキャリアが劣ると思っている。が、日本CPO協会という集まりに対し、そこに子どもがいる女性がいることが、誰かの勇気になればいい、そんな思いで発足時からJOINしている。
私の今後のキャリア
さて、最初の質問に戻ろう。私が今後のキャリアをどう考えているか。
答えは「どうなりたいとかは特にないです。」だ。
私は自分がどうなりたいかではなく、「社会に対して何をなせるか」を軸に生きている。
プロダクトマネージャーとは結局、プロダクトを通してどんな価値・どんな未来を提供できるかをつきつめる仕事だと思っている。私は凡人で、世界で見るとほんの小さな1ピースにすぎない。けれど、私が一生懸命何かをしたことが、少しでも多くの人を、少しでも幸せにできたらいい。
もちろん傲慢だということは知っているし、幸せを一義に定義することはできない。でもそれが私がプロダクトマネージャーとして仕事をしている意味だと思う。
上に上がることを目指すのは素晴らしいことで、それを否定する気持ちは一切ない。ただ、そういうのじゃないプロダクトマネージャーとしての生き方もあるよという私の例が、誰かの役に立てると良いなと思う。
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