救急外来に私が行かなくなった理由

連休を頂いて久しぶりにICUに戻ると頸髄損傷の患者が入院していた。
交通事故を契機に脊髄損傷を受傷し、呼吸が停止したためそのまま心肺停止になったようだ。病院に運ばれて心拍は再開したが意識は戻らなかった。
「意識が戻らなくてまだマシだったのかもしれない」昔の記憶が蘇った気がした。
神経損傷の影響で手足を動かせず、ベッドで身動き一つしないにも関わらず、その患者は他のどの患者よりも存在感がある。私がそう感じるだけで、他のスタッフにはそうはとれないかもしれない。
私はその物言わぬ重症患者のこれからの残酷な治療経過を予想し、そして昔のことを思い出して吐き気がする。

私はもともと救急医として日々救急外来で勤務し、そこで担当した重症患者に関してはそのまま集中治療室で自分が主治医として見るという働き方をしていたが、ある症例をきっかけに救急外来での診察をやめて集中治療室でのみ勤務する働き方を選ぶようになった。主治医になることはなく、主治医の治療のサポートをするという役割だ。主治医としてのその重い責任から逃れようとしているのかもしれない。救急車で運ばれてくる重症患者の診断を行い、適切な治療を行うことに関しては自信があるが、その症例をきっかけにいわゆるトラウマとして頭に植え付けられて救急外来に足を運ばなくなったのだ。

研修医を終えて2年が経った頃というのは、仕事を任されたり、そこでいい結果を残し、いわゆる全能感に溢れた時期である。救急医として現場での働き方に慣れ、場数を増やし一人で重症患者を救えるようになり患者から感謝される。集中治療室でも人工呼吸器や透析、人工心肺(ECMO)の扱いに慣れ怖いもの無しである。そして、若くてフットワークも軽いため他科の先生からいろいろ頼まれたり、看護師からも声をかけやすくチヤホヤされる。

そんな時に私の天敵は上司のS先生であった。私が来る前は、彼はいわゆる病院のカリスマであり彼の知識に敵うものは存在しないし、何より臨床的な嗅覚に優れていた。彼の治療選択に迷いは無く、かついつも正しく、そして手技は美しかった。私も彼に憧れ、ロールモデルとして救急集中治療医を専門として選び、彼の全てを盗むつもりでがむしゃらだった。少しずつ彼と同じ考え方や手技ができるようになり(レベルや精度には雲泥の差があったと思われる)、徐々に私の仕事が増え、さらに私は自信をつけていった。他科の先生や看護師からすると、カリスマのS先生にわざわざ頼まなくても、下っ端の私の方が声をかけやすいため当然である。
彼は夏はハーフパンツにサンダルで冬はスタイリッシュなタイトジーンズを履いていた。そしていつもなぜか手術用の帽子をかぶっていた。どこから見てもそれが彼だとわかるが、とても「お医者さん」という見た目ではない。しかし、周りから何も言わせないだけの実力を持ち、また努力をする人間だった。患者も第一印象には面食らうが、その知的な話し方や実際に結果を出す彼に不満をいう方はいなかった。見た目はともかく、その話し方や医学に対する姿勢のようなものは憧れるものがあり彼が読んだのと同じ文献や彼が当時作成する重症患者の治療ガイドラインなどは誰よりも深く読み込んだ。
しかし、彼の真似をして治療がうまくいったり、みんなに褒められて有頂天になっている時に限って、必ずS先生から地獄に突き落とすような仕打ちを受けるのであった。例えばそれは、私が出した患者への指示を無断で全て削除され出し直されていたり、指示簿をゴミ箱に捨てられたり、知らない間に自分が担当の患者の治療方針を変更されていたりだ。大体は看護師から間接的にその話を聞き同情されたものだが、時には直接面と向かって、「お前のこの治療は意味がないからやめろ。時間の無駄だ。」というニュアンスの話をされたこともあった。この人は発達障害か?人との接し方や話し方にもうちょっと気を遣えないのか?と、いつも看護師や同僚と愚痴を言ったものである。今の時代ならパワハラと言ってすぐにやめさせられていたかもしれない。
しかし、書き直され、新たにオーダーされた点滴や処方、そして看護師への指示を確認すると、何をどう考えてもそこに文句のつけようが無く、文献やガイドラインを読み漁っても一つとしてより良い治療の提案をできないのであった。

苛立つ私は、なんとしても彼に文句言われないように、文句の付けようの無い治療を目指し日々鍛錬した。

そんなある日の日直が始まってすぐに、当時14歳のジュニアオリンピック体操の選手が競技の朝練中に水平棒から転落し頭から受傷して当院に搬送された。
来院時彼女は努力様呼吸で、彼女の手足は全く動かず、垂れた唾液を拭くこともできない状態であった。思春期の女の子の顔が唾液で汚れているのを見て、早く看護師にそれを綺麗にして欲しくて苛立ったが、状況はそれどころでなかった。今後の選手生命などを心配する余裕も無いほどのその苦痛を、私は自分の方まで苦しくなるイメージに襲われ見ていられなかった。彼女の目は医者である私に助けを求めていたが、そこにはとても先ほどまで自信に満ち溢れた全能感を持った医師はいなかった。病歴を聞いて、一目見たらその患者が脊髄損傷で呼吸筋まで傷害される高位の損傷であることは明確であり、診断は容易であったが、何かしら認めたくない気持ちから、何か他の治療可能な病気があってくれと祈りながらMRIやCTの画像検査を施行した。通常であれば、呼吸含めた全身状態の安定が優先であり、全身麻酔をして気管挿管というのが妥当な選択であるが、それをしてしまうことは脊髄損傷と認めてしまうことであり、つまりスポーツエリートとしての彼女の人生に終止符を打つこととなる行為な気がしてためらってしまったのだった。

結局全ての検査結果が上記の診断を疑いもなく確定させた。それでも私は、挿管せずにNPPV(非侵襲的陽圧換気) で粘り、S先生に習ったことを思い出しながら、少しでも呼吸が良くなるように、気道の中に垂れ込んだ唾液を咳で出せるように理学療法を続けていた。
「呼吸は唯一自分で調整できる生命兆候だ。心臓は止める事はできないが、呼吸は止めたり、やり方を工夫すれば肺の状態を改善することもできる。」と言われたのを必死に思い出し、呼吸補助筋のサポートを続けた。最初はかろうじて声を出せる彼女から「咳をする時に、今みたいに腹筋を押さえると少し楽、もっと強く押してください」という声が聞こえていたが、だんだんその言葉すら出なくなっていた。言われなくてもどんどん強く腹筋を押している自分が何をしているのかわからなくなる感覚に襲われた。周りから見たら、彼女のお腹を必死に押さえ、私が苦しめている様にさえ映っただろうか。「楽になるからね!もう少し頑張ろう!」と言いながら続けていても弱っていく一方であることは誰の目にも明らかであった。それでも看護師は休憩中の人や、夜勤で帰ろうとしていた人まで診察室に集まり、みんなで代わる代わる手伝ってくれた。その間彼女の聞こえなくなった声がなんとか聞こえないものかと耳をすましながら、集中できない感情のまま、専門の整形外科の先生に連絡したり、手術のための輸血の準備や手術室の連絡などを進めていた。

そうこうしていると勤務日でないS先生がなぜか救急外来に来ていた。私には何も言わず、彼女の両親と本人にいつも通り適切で文句のつけようのない病態説明と、これからの治療方針を告げた。今後手足の動きが戻る可能性は限りなくゼロに近いという内容まで。私がためらってなかなか出来なかった本人への説明をなんのハードルも無かったかのように成し遂げ、拭くこともできない涙があふれる彼女のことを気にする様子も無いかのように、そのまま全身麻酔と挿管の準備を始めた。いつもは私に手技をさせて何かしらケチをつけるのが定例であるが、その日はそのままS先生が挿管した。本来手技を上司に代わってもらうというのは屈辱だが、この時は正直自分がやらなくて良くなったことにホッとした。手技自体への不安より、彼女に最後通告をする事への迷いが強かった。脊髄損傷患者の挿管は難しいが、S先生のその手技はとても正確で早く、全く問題のない患者を挿管しているかのように見えた。
S先生は処置を終え、手術までの調整や全身麻酔の微調整という、もはや誰でもできる仕事のみになったところでいつの間にか消えていた。
S先生が自分の鋭い嗅覚で嗅ぎつけたのか、看護師の誰かが痺れを切らして呼んだのかわからなかったがどちらでも良かった。後から振り返ってみて、あの場で冷静に挿管できていたか、正直自分で自信が無かった。彼女の呼吸が止まるまで、もしかしたら粘り続けていたかもしれないなと自分の無力さを嘆いた。そうなっていたら多分、精神的に未熟な自分は医者を辞めていただろう。S先生はそこまで分かっていた。そして一言もケチをつけたり、ダメ出しをすることなく消えていた。それがさらに自分には辛かった。ダメな自分が全部見透かされているようだった。いつもなら納得いかない治療をすれば、主治医を私からS先生自身に変更するのだが、その日は彼女の担当主治医をそのまま私から変更しなかった。

彼女はそのまま脊椎固定術を施行した。これは頸髄損傷の治療ではない。これ以上悪くならないための予防でしかない。彼女のその麻痺は良くならないし、これから人工呼吸器が一生装着され、肺炎などの感染症を繰り返しながら苦しみながら最後を迎える。友達や体操のライバルと話したり競ったり遊んだりもできない。頭だけはクリアなのだ。こんなの地獄である。自分より一回り以上も年下の彼女がその状況に耐えられるわけがないと思うと吐き気がした。
その事実をすんなりと彼女に伝えたS先生にも八つ当たりだと思うが苛立ちを覚えた。

手術の後で覚醒した彼女は、人工呼吸器の装着で楽になったのか、苦悶様表情は消えていたが、逆に一切の感情を無くした抜け殻のようだった。
日々面会に来る両親と本人に対して、私は「麻痺が良くなる可能性はゼロではない」と話した。できるだけ両親の面会に合わせて説明をしに行った。しかし、自分がいない時にたまたま両親が面会に来た時には、見計らったかのようにS先生が来て「麻痺が良くなる見込みはない」と伝えた。本人には言わなかったが、両親には「脊髄損傷では不整脈等突然のイベントで急変することもある。予想がつかない病態が今後も起こるかもしれないから覚悟しておいて欲しい」と説明しているということを看護師から聞いた。
確かにそのような事はある。しかし稀であり、全例ではない。このダメージを受けた状態の彼女たちにこうも追い打ちをかける必要があるのか理解に苦しんだ。もどかしかった。万が一そのようなことが起きても、今度は失敗しない。すぐに問題を一人で解決する、誰かの助けが必要でもS先生以外の他の同僚や先輩を呼ぼうと決心していた。

S先生がその話をした翌日に彼女はVf(致死的不整脈)を発症した。
心筋梗塞や電解質の異常で起こる不整脈ではないため、おそらく脊髄損傷に伴う神経の異常で交感神経の制御がつかないストームの状態であろうことが推測されたため、すぐにECMO挿入のスタンバイを始めた。実際に除細動器を用いた通常の心肺蘇生に全く反応が無かった。自分の判断と対応は正しい。そう確信しECMO挿入を準備していると、また挿管の時の不安と迷いが押し寄せてきた。何かあった時のために彼女の体格にあったカテーテルのサイズ準備やシミュレーションも行っていたが、手技がどうこうと言う問題じゃなく、得体の知れない何かが不安になっていた。医者には嗅覚がある。何かおかしいと思った時はその予想は当たる。急ぐ状況ではあるものの、そのまま1人で続けたら何かトラブルが起きるのではないか?という迷いがあった。
「S先生すぐに呼んで!」結局近くの病棟の先生やその日勤務の同僚でなく、絶対呼ばないと決めていた名前を叫んでいた。
自分のこだわりやプライドより、彼女を助けることが優先された結果の言葉であったためか、ある意味自分でも迷いは無かった。
しかしS先生は意外にも誰かが呼ぶまでもなく、そこに来ていた。「安心しろ、焦らなくても大丈夫。お前の判断通りこのままECMOを入れよう。サポートするから続けろ」彼は淡々とサポートし、今回もケチをつけることは無かった。そしてトラブルは何も起きず手技を終えた。
彼女のバイタルが安定した後でS先生は「正しい判断でかつ早かった。そして手技は正確だった」と言った。そのままS先生は消えて、その後ICUで彼女の治療を継続した。

その数週間後彼女は亡くなった。
ECMO挿入後もいろんなイベントがあって手を尽くしたが戻ってこなかった。彼女の笑顔を一回も見ることなく最後の日を迎えた。

彼女が亡くなる前の日、彼女やもっと幼い子の命も救えるようになりたいと考えていた私は、たまたまそのタイミングで開催される小児の集中治療講習会に申し込み参加予定であった。彼女の状態が回復不可能な状態に陥っている事は明白であり、機械による延命を続けても、もって数日の命という状況だった。私は講習会をキャンセルするつもりでいたが、「今出来ることは限られているし、あとはお前じゃなくても、俺でも出来ることしか残っていないよ。あの子のためにも講習会に行ってこい。」とS先生に言われた。自分にできて、S先生にできないことなんて無いよなと考えながらうつむいていた。その時、「お前が主治医じゃなかったら、ここまでもってないよ」と言われた。
「それから…俺には救急外来のあの状況で、冷静に呼吸補助筋のサポートをしながら粘れない。怖くてすぐ挿管してしまうな。もしやれたとしても、看護師たちがあれだけお前の時のように、治療をサポートしてくれないだろうな。勤務終わってんのに心配してスクラブ着替え直してまで来てくれる奴なんていないだろ普通」と笑って言われた。意外すぎて不思議な気持ちだった。皮肉っぽくは聞こえなかった。色々整理がつかない思考の中で、そのまま礼を言って結局講習会に向かった。
それがきっかけで、小児集中治療に興味を持ち、しばらく小児専門病院で鍛錬を続けた。今だったら彼女を救えただろうか?結局変わらないかったかもしれない。それでも、この経験があったからこそ救命できた小児症例を何度も経験した。無駄ではなかったと思いたい。

彼女が亡くなったあと両親と話をした。父親は「S先生に言われていたので覚悟はしていました。一生体を動かすこともできず苦しみながら生きるよりは、もしかしたらマシだったかもしれません」と泣きながら言われた。彼女にとってそれしか選択肢がなかっただけで、手足が動かなくても幸せなこともあるかもしれないし、それは今となっては誰にもわからない。しかし両親にとってそう考える他無いのだろうと思ったら尚更きつかった。それからしばらく吐き気が続いた。
彼女の両親は最後に「最後まで手を尽くして頑張っていただきありがとうございました」と言った。
私が1番嫌いな瞬間だ。命を救って何の感謝もされずに退院する患者を見送る方が余程マシだ。救えなかったのに感謝される程、不甲斐無い瞬間は無い。

小児集中治療で鍛錬を終えたあとは、成人の集中治療専門施設で働いている。救急外来に降りることは滅多にない。たまに呼ばれたらヘルプに行くくらいだ。今でも外傷は嫌いだ。あの日の経験を生かして患者を救いたいと思うが、脊損を見ると今でも吐き気がする。

後から分かったのだが、S先生は私のことをとても気に入ってくれていたようだ。一匹狼のような人間だった彼は、それまで私以外に二人で飲みに行って医学談話をしたり、誰かを海外の学会に連れていったりしてくれたことは無かったらしい。その当時は、与えられた発表の重荷に潰されそうで辛いこともあったが後々それがどれほど意義のあることだったかと思い知らされた。
自分の治療や考え方、生き様に至るまで尊敬してくる私に、様々なものを与えようとしてくれていた事実は、S先生と喧嘩別れでその施設をやめた3年後に看護師伝えに知った。救急を始めて2年くらいで、少しうまくいった治療で調子に乗ったり有頂天になっている自分に対し、不器用ながら戒めを与えるつもりだったというのはなんとも分かりにくい指導医の愛情表現であった。
結局、いつも自分がピンチの時にS先生が駆けつけてくれるのは彼の嗅覚なのか、何かしら心配して気を遣った看護師が呼んでくれていたのかはわからなかった。
今も彼を超える医師に出会ったことがない。彼は今も様々なガイドラインを作成したり、学会で講演したりしている。私はそれを見に行くのが今も学会における一番の楽しみである。
そして今私は、仕事に慣れてきたあたりの研修医や若手の医師に厳しい。

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